●自民党の近代化を目指し起こした「党風刷新運動」
政調会長を辞めた後しばらくして、福田赳夫が初めて自分の勢力を旗揚げすることになります。それは何かというと、「党風刷新運動」というものです。自民党の歴史を振り返ると、派閥に分かれて、その派閥のボスが首相になるために派閥同士で手を組んだり、争ったりすることがあります。
ただもう1つ自民党の歴史を見たときに、派閥を超えて連携しようという運動が現れては消えています。一番有名なのが、石原慎太郎などが中心になってつくられた青嵐会です。おそらく自民党の歴史の中で最初につくられた超党派の運動は、この党風刷新運動だったと思うのです。まさにその中心にいたのが福田でした。
福田はこの党風刷新運動を立ち上げて、いろいろな派閥から議員を募って、党の近代化と派閥の解消を訴えるわけです。この流れには2つの背景があり、1つは安保闘争で社会党が労働者や大衆を動員して成功したのです。自民党がそういうことをできるかというと、意外にできません。自民党はそれぞれの土地の有力者と結び付いた古い体質であり、しっかりとした組織政党にしないといけないという危機感があったわけです。
もう1つは、自民党の中で派閥政治が横行して、派閥のボスが勝手にそれぞれ利権をあさって、金権腐敗が進んでいる。そういったものを、岸政権の時になんとかうまく改善したかったのですが、結局うまくできなかったのです。福田は池田勇人に対してあえて党風刷新を正面からぶつけることで、自民党を近代化させようとしたわけです。
●自身の派閥が分裂し失敗に終わった党風刷新運動
ところがこの福田の運動は失敗に終わってしまいます。どうして失敗したか、その要因は大きく2つあったと思うのです。
1つ目ですが、池田政権側が福田と同じように党改革を主張していた三木武夫に対して、党の近代化を検討する調査会を発足させて、その検討をさせたのです。これは結局、自分の敵になるような勢力をうまく分断することに成功します。三木の調査会は、党改革の近代化の答申というものを出すことで、福田がやろうとしていたことをうまく潰してしまうわけです。
もう1つ。致命的だったのは、福田はまだこの前後の時期、岸の派閥にいたことです。ところが岸の派閥がこの時期、分裂してしまいます。派閥の難しいところで、1950年代から1960年代初頭までは、派閥はボスが引退したり、亡くなったりしても、その次の人が引き継ぎません。派閥はあくまでその人を首相に押し上げるための組織なのです。だから、その派閥のボスが首相になったり、途中で死んでしまったら、そこで解散という感じで消えてしまうことが多かったのです。岸派もまさにそれで、福田の下で一丸となってまとまってやっていくかというと、中で分裂して、福田系と、川島正次郎と椎名悦三郎が合同したグループと、岸の下に残ったグループの3つに割れてしまったのです。
福田の党風刷新連盟というのは、派閥を解体するためなのですが、闘うためには数がいるのです。その数で一番あてにしていたのが、当然、自分が所属する福田派でした。ところが岸派がバラバラになってしまったので、大幅に戦闘力が落ちてしまうことになったわけです。
結局、福田自身も池田に、その後、ポスト面、資金面で徹底的に干されて、冬の時代を迎えます。1960年代前半の福田は、政界に入って急速に力を付けてきたのですが、初めて足踏み状態になって、苦しむことになったわけです。
●佐藤栄作政権で初めて大蔵大臣に就任、長期政権を支え続ける福田
さて、こうした池田政権下で福田は不遇の身になるわけですが、間もなくこうした状況が変わっていきます。1964年10月の東京オリンピックの閉会式と同時に、池田首相が病気のために引退します。
代わって成立したのが佐藤栄作政権です。岸の弟だった佐藤が政権を率いることになったわけです。池田政権期、高度成長が進んだのですが、明らかに高度成長で強引に成長してきたひずみが溜まってきていました。それが、池田が首相を辞めた後、佐藤政権になった前後くらいからはっきりと見えてくる中で、いわゆる「65年不況」というものがやってきます。大企業やメーカーの倒産が相次ぐ中で、ある種、本格的な不況を迎えることになったわけです。
こうした中で佐藤が頼みとしたのは福田でした。福田は1965年5月に大蔵大臣に就任します。大蔵官僚としてやってきて、ついに初めて大蔵大臣というポストに福田は就くことができたのです。
大蔵大臣になった後、福田がやった政策は、戦後初めてとなる赤字公債の発行に踏み切るというものでした。
戦争中に公債を乱発した結果、経済がめちゃくちゃになった経験から、戦後の日本は赤字公...