●国際協調を念頭に置いた変幻自在な経済運営
さて、福田赳夫と政局に関する総括は以上にして、福田政権の功績について少しまとめてみたいと思います。
1976年12月から1978年12月までの2年間が福田政権でした。この福田政権の功績を考えたとき、その多くは外交に関わる部分ではなかったかと思います。つまり、国際社会の中で日本が果たすべき役割を、福田は正確に理解をし、それに対応したという評価はできると思います。
福田の評価を見たときに大事なことの1つ目は、経済政策です。福田の経済運営は非常に変幻自在です。
田中政権の大蔵大臣をやっていた頃から、三木政権の副総理時代は厳しい総需要抑制策を取ることで、とにかくお金を使わないようにして、インフレを抑えるのです。ところが、福田政権になると一転して、大胆な内需拡大策を取って、経済を活気づけようとする。7パーセントという当時の経済成長率を実現するために「臨時異例」の経済運営をするのです。例えば、1977年度の第2次補正予算と、1978年度の予算を一緒に運営をして、切れ目のない公共事業をやって、景気刺激を続けるという考え方です。
ところが、これをやったがために日本の公債依存度が、福田政権期、ついに30パーセントを超えて、34パーセントまでいってしまうのです。その後、財政課題が大きな課題として残ったことは事実です。
しかしながら、ではなぜ福田はこんな異例な手を使ってまで景気刺激策を取ったか、ということです。
それはやはり国際協調の文脈というものが無視できないと思うのです。当時、石油ショックが世界を覆う中で、西側の先進国はどの国も経済不況に襲われていて、国際収支が不均衡な状態でした。そういう中で日本は、アメリカ、ヨーロッパとともに、世界経済の3つの中心の一角として、世界経済を牽引しなければいけないという圧力があったのです。
さらに福田自身が、戦前に国際協調体制が崩壊して、それがファシズムの台頭を招いて、第2次世界大戦に向かったという歴史の目撃者だったことも大きな要因でした。福田が自身の歴史的経験から、国際協調が非常に重要で、そのためには日本が少々無理をしてでも、世界経済を引っ張る機関車にならないといけないのだということを強く考えており、その責務を積極的に受け入れたということが大きかったと思います。