●日中国交正常化…福田の慎重な考え方のほうが王道だった
さて、田中政権が成立します。その田中政権がやった外交政策は、一番大きなものは日中国交正常化です。実は、この日中国交正常化は自民党の総裁選とリンクしていました。
というのも、田中角栄は三木武夫を取り込むためには、日中国交正常化をやるという公約を掲げざるを得なかったのです。田中は、実際には買収攻勢をかけていたのですが、大義名分は必要でした。その格好の大義名分が日中国交正常化だったのです。
実は、福田赳夫はこれに対して慎重姿勢でした。俗にいわれるのが、福田が親台湾派、田中が親中国派で、結局は田中の勝利で日中国交正常化が実現したという見方です。しかし、この見方は少し単純化しすぎているところがあると思います。というのは、やはり1972年当時、日中国交正常化は当時の国際情勢から見ても、また国内の世論の要求から見ても、避けられないものであるというのはもう明らかだったからです。
福田赳夫が主張していたのは、日中国交正常化を実現するという路線に反対はしないということです。しかしながら、いきなり北京に向かうのではない。例えば当時、ソ連が日本に対して接近をしてきていて、もしかすると北方領土問題が前に進むのではないかという期待がありました。だから、日ソ関係を見据えて慎重な外交をやらないといけない。あるいは、日中国交正常化を結んだら、台湾との政治関係は切らないといけない。ところが、いきなりやってしまうと台湾問題の処理が大きな問題になります。だから、北京側とも台湾問題をどうするかをちゃんと協議した上で日中国交正常化に踏み切るべきだ、ということを福田は主張していたのです。
そうして福田は反対したわけですが、結局は田中と外務大臣になった大平正芳が、政権ができて間もなく北京に向かって日中国交正常化を実現することになります。ただこれは、中国政府が当時、日中国交正常化を急いでいたという事情があって、条件面では中国側が非常に譲歩しているのです。
だから、田中政権にしてみたら、実現できる見通しが立った上で、国交正常化に踏み切ったのです。結果として田中のやり方はこの時、成功したわけですが、ただ本来、外交論として考えたとき、福田の慎重に交渉を進めるという考え方のほうが王道でした。
だからこそ、その後で中国問題は、福田に近い人たちと田中政権との間で対立の火種となります。日中航空協定交渉では、台湾の航空機が日本の空港を使用する問題をどうするのかをめぐって、自民党の中で親台湾派と親中国派の中で割れることになるのです。
●田中政権で再び大蔵大臣になりインフレの抑制に貢献
さて、田中政権は、このようないい滑り出しで始まったわけですが、間もなく行き詰まります。どうして行き詰まったのかというと、経済的な失策のためです。田中が公約として掲げた列島改造論がインフレを引き起こしてしまいます。さらに次の年、1973年になると石油ショックが起こって、インフレに加速がかかってしまうことになります。
一方、福田は総裁選に敗れた後、少し休みたいと思っていました。ところが間もなく、総裁選が終わった1972年の12月には、田中は福田に「もう1回入閣してほしい」、要するにインフレ対策とか、土地の値段が上がっている問題をなんとか抑えてもらいたいということで、経済財政のエキスパートだった福田に助けを求めてきたわけです。
福田にとっては、それを断ることも1つのやり方だったと思うのですが、彼はそういうところで人がよいところがあります。国家のためにやってくれと頼まれたらノーとは言えない。
結局、すぐに行政管理庁長官に入閣して、翌年には大蔵大臣となり、オイルショックで加速するインフレを止めるために本格的な引き締め政策をやることになったのです。
福田にとっては、経済の引き締めをやらないといけないので、これは悪役になるということです。だから、損な役回りであったと思うのですが、結果的に、福田は見事にインフレに歯止めをかけることに成功するのです。
●金権政治をめぐる田中との対立、そして三木政権へ
(こうして福田は)田中政権に入って田中を支えていたのですが、徐々に田中との対立が避けられなくなっていきます。
1つの大きな問題は、政治倫理をめぐる問題でした。きっかけになったのは、1974年7月に行われた参議院選挙です。国政選挙で、田中はたくさん企業を政治家にはりつかせて、約400億円と言われる巨額を使い、空前の金権選挙をやったのです。
福田自身が語っているのですが、自分が佐藤政権の幹事長だった頃に選挙に必要な額は30億円か40億円だったというのです。だから田中は、その10倍ものお金を使って選挙戦に挑んだのです。
ところが、それでも...