●その後の福田赳夫の政治観に大きく影響した安保闘争
さて、岸信介政権を見るときに一番重要なのは、日米安全保障条約の改定問題だったのです。岸政権が安保条約を改定しようということについて、アメリカ側からの示唆を受け入れて交渉が始まったのですが、間もなく日本国内で非常に強い反対運動が盛り上がってくることになります。
岸政権の頃の安保改定を見たときに、非常に大きな特徴の1つは、安保改定をやろうとする政府と、それに反対する革新勢力、学生、労働者という構図だけではなくて、自民党の中の派閥対立が、その後の安保改定交渉に非常に大きく影響してきたことです。この頃から、自民党の中でははっきりと派閥に分かれていって、派閥のボスが手を組んだり、離反したりして次の政権を狙うという構図ができてきていたのです。
正確には、安保闘争の少し前に警職法闘争というものがありましたが、岸に対するそのような反発が強まる中で、自民党の中でも彼の求心力が落ちていきました。
そういった中で、池田勇人、河野一郎、三木武夫といった有力な派閥の指導者たちは、安保改定を絡めながら岸政権を揺さぶって、自分たちが次期政権を狙っていくことになります。これによって岸政権は大きなエネルギーを吸い取られることになるわけです。
その頃、福田赳夫が何をしていたかというと、彼は農林大臣でしたので、安保改定交渉にはほとんど関わっていなかったのです。いよいよ安保改定の問題が大詰めを迎えようとしているときに、福田はソ連のモスクワで日ソの漁業交渉をまとめていました。
それが終わって、ちょうど帰国中であった1960年5月19日のことです。福田が、たしか帰りのパリかどこかの飛行場で新聞を読んだ時に見たと思うのですが、自民党が新しい安保条約を批准するために衆議院で一気に強行採決をするのです。そのためにそれに反発した大衆運動が一気に盛り上がって、国会の前を学生が取り巻いていく安保闘争がクライマックスに向かっていくわけです。
福田は帰って来た後、農林省の役所には戻らずに、そのまま首相官邸に入って、そのままずっと岸のそばで、例えばアメリカ政府の駐日大使と会って交渉をしたり、いろいろと安保に関する折衝をやるのです。
1960年6月19日に安保条約が自然成立する時のことですが、その最後の夜に首相官邸で岸の側近たちが集まって、その官邸の周りではデモ隊が取り巻いているわけです。この全学連のデモ隊に取り囲まれる中で、福田もまた首相官邸に残っていました。文字通り、命がけの中で安保改定は実現したわけです。
この安保改定は、その後の福田の政治行動にも大きな影響を与えたわけです。というのも、岸・福田にとって本当に憎らしい存在だったのは、安保改定に反対する勢力そのものではなくて、自民党の中で派閥的な思惑で岸政権の足を引っ張り続けた勢力なのです。
福田にしてみたら、従来のような派閥が残っている限りは自民党も近代化できないのではないか。この派閥政治の弊害を改めなければいけないのではないかというのが、以後の福田の政治家としての大きな行動原理になっていくわけです。
●「政治の時代」から「経済の時代」へと舵を切った池田勇人政権
安保闘争が終わった後、時代は1960年代に入っていくことになります。岸政権が倒れた後で成立したのは池田政権です。池田勇人もまた福田の先輩であって、大蔵官僚から吉田茂に見いだされて政治家の道に入って、首相となった人でした。
池田政権はこれまでの岸政権のやり方から大きく路線を変えます。つまり、安保闘争というのは日本の国内における保守と革新の2大勢力が衝突した、一番緊張が高まった瞬間だったのです。池田首相は、そうではなくて、これからは野党に対しても低姿勢でやっていく。
もう1つは、「政治の季節は終わった。経済の季節がやってきた」ということで、国民の目標を経済成長に向けさせていこうと、みごとにペースを変えてしまうわけです。
文字通り、池田の下で政治の時代から経済の時代がやってくるのです。戦後の日本の歴史を考えたときに、1つの大きな転換点であったし、池田という人がそれを象徴したことは間違いないのだと思います。
●実は「国民所得倍増計画」は岸政権時代から検討されていた
池田政権が進めた一番有名なものとしては、国民所得倍増計画というものがあります。つまり、10年で国民の所得が2倍になるということを大きな看板政策にすることで、池田政権は国民からも支持を得たわけです。
ただ、あまり知られていない話ですが、実はこの国民所得倍増計画は、池田政権になってから始まったものではなくて、その前の岸政権下で進められてい...