●海外でも有名なハチ公の逸話
こんにちは。東京大学哲学研究室の一ノ瀬です。今日は「東大ハチ公物語―人と犬の関係」という題のもと、少しお話をさせていただきたいと思います。要するに、今日は犬のお話をさせていただきます。
まず、「東大ハチ公物語」というタイトルについてです。「ハチ公」とは、渋谷の駅前に銅像があるハチ公のことですが、「なぜそれが東大に関係があるのか?」という疑問を持たれる方が、もしかしたらいるかもしれません。そのことからまずお話しします。
ハチ公は世界的にも有名な犬で、私が外国に行って外国の研究者と雑談をしている時、哲学関係の人で犬を飼っている人も多いので、犬について話題が及ぶと、「そういえば、日本にはハチ公って有名な犬がいますよね」という話になるのです。ただ、そういうときに、私はハチ公について特に関心があったので一定の知識がありますが、そうでない方々も、ハチ公をすごくよく知っていて、ハチ公の物語もよく知っている。例えば、渋谷で飼い主が亡くなった後ずっと待ち続けたというその逸話は、ほとんどの方が知っているのです。
●ほとんど知られていないハチ公の主人・上野英三郎博士
けれども、「待ち続けた」という時に、では一体、誰を待っていたのかということは、必ずしも皆さんが知っているとは限らないということに、ある時私は気づいたのです。同僚の日本人の方はそういうことを知らない場合が多かったですし、なぜそうなのかなと私は思いました。あれほど主人を待ち焦がれて待っている犬なのに、その主人が誰かということについての知識が、ぽっかりと抜けているというのは妙なことだと思ったのです。
実はこの主人とは、私の所属している東京大学の農学部の教授で農業土木を専門にされていた上野英三郎という方なのです。上野博士が飼っていた犬がまさしくハチで、実は、ハチと上野博士は1年と数カ月しか一緒にいなかったのですが、上野博士がハチを異様にかわいがったので、ハチがその主人をずっと忘れることがなかった、というお話なのです。
上野博士は実は渋谷に住んでいて、当時農学部は今の駒場キャンパスにありました。上野博士は渋谷の松濤という所にご自宅があって、仕事に行くときには駒場キャンパスまで歩いて行っていたのです。ところが、上野博士は当時の日本では最先端の農業土木の研究者だったので、政府関係の仕事にもいろいろと呼び出されることが多く、出張も多かったのです。上野博士は畑を念頭に置いて考案されてきた西洋式の灌漑技術などを、日本は畑も多いけれど田んぼも多いので、田んぼに応用するような形で日本化をした非常に先駆的な方なのです。
●ハチが10年間渋谷駅に通い続けた理由
その方が政府の用事や何かで出張したり遠くに行ってしまうときには、帰りは必ず電車を使って渋谷駅で降りて帰ってくるのです。そこで、ハチは上野博士の姿が数日見えないときは、渋谷駅にいれば主人が帰ってくる、ということを知っていたらしいのです。上野博士は大学に行った時に途中で悲劇的な急死をなされて、二度と帰らない人になってしまったのですが、数日主人が帰ってこないので、ハチは、「渋谷駅に行けばいつものように主人が帰ってくるんじゃないか」と思って、渋谷に行っていたというのです。
上野博士が亡くなったのは、ハチが1歳ぐらいの時の話で、その後11歳ぐらいまで生きましたから、ハチは10年ぐらい通い続けたということで、驚くべきことです。そうして通い続けたけれども、上野博士が亡くなって10年ぐらいたった1935(昭和10)年3月8日に渋谷駅の近くで冷たくなっているハチが発見されたということです。ハチは1923年11月10日生まれなので享年11歳ということになります。
●ハチ没後80年を記念して東大農学部キャンパスに銅像
1935年ですから当時のことを覚えている方がまだ結構存命中です。私どもが2015年3月8日に東京大学の農学部キャンパスに、上野博士に飛び付いていくハチの姿を描いた銅像を造りました。2015年3月8日、ちょうど没後80年ということで記念して造ったのですが、そのセレモニーの時に、自分が小さい子どもの時にハチをなでたという方が何人かいらっしゃいました。もうご高齢の方ですけれども、何人かいました。ですから、ハチの記憶はまだ残っているのですね。
ハチについてはそれ以外にも、日本の映画で『ハチ公物語』が出来たり、それからリチャード・ギア主演でアメリカのハリウッド版の『HACHI』も出来ましたので、多くの方が知っていると思います。ラストシーンで多くの方がもう胸が詰まって、私もそうでしたけれども、非常に苦しみを感じたわけです。それほど人々に感動を与えるハチのさまざまなこと、誰を待っていたのかということを含めて、それをなんとかいろいろな方に知って...
(一ノ瀬正樹・正木春彦編、東京大学出版会)