●英語の授業から、ヒトのことばの特殊性が見えてくる
5番目に考えたいのが、「道徳とことばの関係は?」です。察しのいい方は、もうここで、なぜ人間だけこんなに特殊なことができるのかということに関して、恐らくことばが絡んでいるのだろうと推察されたと思います。では、ヒトのことばはどう特殊なのか。これは英語の授業を思い出していただくと分かりやすいでしょう。
まず、「三人称」です。これは何かというと、今ここにいない第三者の情報を、伝え手と受け手から独立したかたちで扱えるということです。人間のような言語を持っていない動物は、今ここにいない第三者の情報を伝え手と受け手から独立した形では扱えません。つまり、その場にいないと情報を伝達できないのです。第三者や第三者が残した何か物質的なものがないと、情報は扱えないということです。
もう一つは「時制」です。これは現在以外の時間を使えるということです。
この二つがあることで時間的・空間的に遠く隔たった、今ここにいない第三者に関する情報を伝達・処理できる、ということになります。厳密な意味でこれができるのは人間だけです。部分的にあるという動物は幾つかあるのですが、時空を完全に超えられるのは人間の言語だけです。
●バーチャルな出会いが生む教祖への親しみ
ということは、バーチャルな出会いが可能になることを意味します。その典型例は、信徒にとっての教祖です。ブッダはもう2千年以上前に死んでしまっているため、今までにあったことは絶対になく、これから会うことも決してありません。そして、遺伝的に見ると、間違いなく赤の他人です。でも、時に信徒は、自分の親兄弟よりも、この教祖に対して親しみを持つのです。
アメリカでは、非常に敬虔なキリスト教徒の親がゲイの子どもたちを勘当して見捨てたため、その子どもたちがストリートチルドレンのようになって非常に貧困な暮らしをしているという問題がかつて話題になったことがあります。つまり、彼らはキリストのことばを、自分の本当の子どもよりも大事に思ったということです。
これが完全な形できるのはヒトのことばだけです。断片的な例として、ベルベットモンキーやミツバチのダンスなどがありますが、よく見ると、時間と空間を部分的にしか超えられていないのです。
●ヒトのことばのあいまいさ
では、ヒトのことばのどういう特徴が、これを可能にしているのでしょうか。大ざっぱに言うと、境界線のない現実に、ある一定の線を引いて概念をつくることが、一つの特徴です。そして、そのときの気持ちとは関係のない、ある音を対応させます。この二つがあると、ヒトのことばになります。
境界や音の範囲はあいまいで、可変的で、実は相対的です。これは時間や場所によって変化します。例えば、平安時代の日本語の音は、今の音とは似ても似つかないものです。今はなくなってしまった発音などが、たくさんあります。それから場所についてですが、青森の日本語と鹿児島の日本語は、そのまましゃべると通じません。ですから、これらには社会的な取り決めがあることが分かります。何か絶対的な基準があるわけではなく、一定の社会的な取り決めに従っていると考えられます。
●科学の進歩で揺らぐ「私」のことば
例えば、デカルトは「私(個人)」を絶対のよりどころとしてきましたが、このことばが揺らいでいます。
私たちは毎日うがいした水をシンクに吐き出しますが、その中には生きた「ほお」の細胞が大量に入っています。そのことの意味が、京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞の作製法を確立してノーベル賞を取ってから、変わってきました。
これまではゴミだと思われてきた物質を取ってiPS細胞にすれば、皆さんのクローンができてしまいます。そのため、今は考え方が全く変わっています。「それもやはり『私』の大切な一部であり、延長だ」というのです。
また、われわれのおなかには「腸内細菌」がいます。しかし、レーウェンフックが顕微鏡を発明する前は、細菌などは見えませんでした。先ほどのチンパンジーと同じで、「見えないものはないのと同じ」なのが基本です。
だから、細菌が分かる前は、その存在すら知られず、誰も何も考えもしませんでした。レーウェンフックが顕微鏡を発見して、便の中にいっぱい細菌があることが分かり、それが病気を起こす可能性があると知らされると、(大腸菌が)敵視されるようになったのです。
ところが最近では、腸内細菌はわれわれが生まれて死ぬまで一緒にいて、免疫や代謝に対する重要な役割を果たすことが分かってきました。そうすると、「それは実はわれわれの一部なんじゃないか」と思う人がいるわけです。
そのように、「私(個人)」のような当たり前に思われることばでも、...