●江戸期は時間がかかることから教えていく
江戸期の教育において、まず何から教えたかというと、人間としての基本をしっかりと学ぶということです。今はどちらかというと、小学校ではやさしいことから教えるということになっています。しかし、江戸期は、人間の基本から教えました。前回お話しした「初めを慎む」という言葉の通り、一番最初に習うことは、真っ白のキャンバスにさっと入ってくるわけですから、すごく重要なのです。ですから、人間の基本、すなわち、これまで申し上げたような徳の教育から始まりました。
正課である四書五経の四書の『大学』の冒頭には「明明徳(明徳を明らかにする)」とあり、これは人間の基本を言っているわけですが、最初はそこから教えるのです。
それからもう一つ重要に考えられていたのは、何しろ早く教えないと元服まで間に合わないため、身に付けるのに長時間かかることから早く教えたということです。そういう意味で、四書五経のまず四書から学んだのですが、面白いことに四書は小学1年生からずっと読むのですが、大学者も研究対象にしているという、非常に特殊なテキストだと思います。こういうものを丹念に読んでいくわけですが、今はその年代年代で必要と思われる知識を教え込むことになっています。
ということで、江戸期は、人間の基本をしっかり学び、身に付けるのに時間がかかることから教えていくというカリキュラムになっていたのです。
●江戸期は人間らしく、現在は子どもらしく
また、現在の教育との違いには、次のようなことも挙げられます。
江戸期はこう考えていました。児童は人間として不完全なものですが、人間の基本というものを学ぶことにおいては全く真っ白なキャンバスです。いってみれば、生まれながらにして人間としての天分、天性をたくさん持っているわけです。そういうものをなるべく早いうちから自覚させ、気付かせていくことが非常に重要です。ですから、児童はより人間らしくなるように学んだのです。つまり、人間とは何か、人間とはどういうもので、どうしていくことが人間なのか、そういったことをまずじっくりと教えるということでした。
今はどうかといえば、児童はより子どもらしくなるように教えているような状況ではないでしょうか。これは私見ですが、そう思われるわけです。そのため、小学校の高学年になったとき、低学年のときとの違いが非常に明確に表れているように、私には思えるのです。今は、小学校の高学年になると、より進学のための学力づくりに徹底して、よい中学に入るための学力をどのように身に付けさせるかが基本に据えられているような教育を行います。
●江戸教育は15歳までに人間通にする
江戸期は、より良い人生のための基礎づくりが基本で、人生をより良く生きてくれという思いがありました。子どもであっても人間ですから、もう人生を歩んでいるわけです。ですから、人生の対応の仕方を教えていったのです。したがって、今でいう小学校の高学年、12歳ぐらいになると、人間に対する教育に徹底していくわけです。そして、15歳までに、人間とはこういうものだと理解させる、つまり人間通にするということです。人間というものが非常に分かっていて、さらにいえば、人間とより良く付き合える、あるいは、より良く扱えるという人間に仕上げていくことが基本にあったのです。
今はどうなっているのかというと、一言でいえば、試験に対する教育で、そうならざるを得ないわけです。何しろ、眼目が、よい中学に入ることです。よい中学に入るためには試験を突破しなければいけないため、どうしてもそうなってしまいます。そうなると、私の見たところ、結果としては、試験には強いが人間としての基本はどうなのかなと思えるような現状がそこにあります。しかし、試験に受かった人は、それでまだ浮かばれるようなところがありますが、合格しなかった人間は全部否定されるような感じで、いってみれば、大きな志を持って先に進まなければいけない年頃で大きな挫折に苛まれて、自分の実力を自分自身が疑うというようなことになってしまうのです。
その点、江戸期は、そういったかたちの現代流の試験には弱かったでしょう。しかし、人間としての基本ができて、人生には強いという人間になるのです。
●教える教育は教師に弊害が起こっている
こうやってお話しすると、非常に独善的だとご批判を受けるかもしれませんが、見ていきますと、現代の教育に比べて、江戸期は人間の本質がしっかりと揺るがないように、いってみれば自己の確立を念頭において学ばせていたように思うのです。
ところで、現代の教える教育は、何が弊害になっているかというと、実は教師なのです。何時何分に来なさいと言って、教師が1人待って...