●子育ての基本は最初が肝心と姑息への戒め
江戸の教育について、これまでずっとお話し申し上げているわけですが、一番分かりやすく申し上げようとすると、どうしても現在行われている教育と江戸の教育の相違点を挙げることになると思います。
江戸期は、「最初が肝心」「初めを慎む」という言葉が非常に重視されていましたから、何でも初めが重要だということで、生まれる前の胎教から、生まれ出た後は3歳まで、また3歳から6歳までと、親は子育て、それから、養育、教育に苦心惨憺、あるいは、誠心誠意、励むわけです。
今、苦心惨憺、誠心誠意と言いましたけれども、江戸の人の教育は、もっと豊かなのです。何かしなければいけないからといった義務に基づいてやっているのではなく、子育てを楽しんでやっているのです。江戸末期から明治初期にかけて、日本を訪れた外国人がこぞって「こんなに子どもを愛する、あるいは、子ども好きの大人が集まっている国はないのではないか」と言っており、皆にこにこしながら子どもと付き合っているという風情があったのです。
有名な『養生訓』を書いた貝原益軒という人には、子育ての基本を著した『和俗童子訓』という名著があります。そこにも「最初が重要なのだ。最初に掛け違ってしまうと、子どもが年を経るにつれて、どんどん違った道へ行ってしまうのだよ」といったことが書かれています。ですから、最初が肝心だということを繰り返し言っているわけです。
もう一つ言っているのは、姑息の愛はいけないということです。姑息ながらとか、姑息の手段といった、あの「姑息」で、一時逃れのことです。子どもがわんわんと泣くので、仕方がないから機嫌を取って一時逃れをやってしまうという「姑息」は、親が子どもに示す最大の罪であるとして、常に親は厳しく正しいことを貫き通してやっていかなければいけないと言っているわけです。
●子どもは社会の宝、地域教育と密接な関係
やがて家庭の教育は終わりますが、家庭内の教育といいますと、いま想起されるのは家庭の中だけで教育を受けることだと思われがちです。しかし、当時は、地域教育と非常に緊密な関係にあり、子どもをこの世の宝物と言って、子どもに対して特別の思いがありましたから、社会がこぞって子どもの教育をしていました。いってみれば、世間、あるいは、社会が教室のように子どもをなんとかより良く育てていくのだと考えていたわけです。
したがって、今のように、子どもが良からぬことをやっているのを見ても、注意一つしないということは全くなく、自分の子どもも、他人の子どもも、全て同じ社会の宝として厳しく叱正するということを主にやっていたのです。
●江戸期は学ぶ教育、今は教える教育
そうやって、江戸期も時代によって変わりますが、今でいう小学校である当時の寺子屋や藩校というところに入学しました。今と同じ6歳で上がったのです。そこから大体15歳で元服ですから、およそ9年間、幼年教育として日夜研鑽を開始するのです。
まず現代の教育との最大の違いをいいますと、相対的な問題ですが、江戸期は学ぶ教育であり、今は教える教育になっているということです。なぜ教える教育になってしまったか。それは、明治5年の学制以来、日本も早く西欧列強に追い付け追い越せで、要するに、産業革命を早く進めなければならず、そのためには各分野で嫌になるほど技術者が必要だということで、技術者教育に切り替えたことが要因して挙げられます。非常に効率よく合理的に教育をこなしていくためには、1人の教師の前に30人、40人の生徒が居て予定に従ってどんどん進めていくことが一番いいということで、西洋流の今のスクール形式になったわけです。
●寺子屋の教師は女性の仕事だった
江戸期はそうではなく、もっと悠長で丁寧と言ってもいいような教育でした。したがって、寺子屋なども、いつ始まるという決まりはなく、先生の家の態勢が整ったときが開講、つまり、一日の始まりであり、それまでに子どもが来ても、外で遊んで待っているといった状態でした。
大体、寺子屋の教師、師匠というのは、女性の仕事でした。江戸というと、封建時代の極致のようで、女性が何か軽視されていたと思われがちなのですが、非常に頭脳的な仕事、特に三味線や手習いの師匠と呼ばれるものは主に女性の仕事で、女性が教えていました。ですから、寺子屋も女性が教えることが多く、特に都会では多かったのです。そうして、自分の家を開放し教室にしました。
●子どもの特性に合わせて勉強内容を決める
学ぶ主体は子どもですから、それぞれが子どもの特性、つまり、天性、天分に合わせて、勉強するところを親と師匠と本人の3人で決めて進めていくのです。
手短に吸収していく子はどんどん進み...