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●「富を制する者が天下を制す」
―― 皆さま、こんにちは。本日は小和田哲男先生に「戦国武将の経済学」についてお話をうかがいたいと思います。さて先生、一般には戦国武将を経済で見るということはあまりないと思いますが。
小和田 そうですね。そこは、どうやって戦って勝ったかということが主ですね。
―― しかし、普通に考えれば、経済がないことには立ち行かない、と。
小和田 よく「富国強兵」と言いますからね。
―― 「富国」も、例えば金山を見つけたとか、農民を働かせたとか、どうしてもそういうステレオタイプの考えになってしまいますけれど、実は非常にいろいろなことを考えていたはずです。当時は南蛮貿易もありましたし、いろいろな道がありました。
小和田先生は、NHK出版『さかのぼり日本史』7巻目の「戦国」を担当され、サブタイトルを「富を制する者が天下を制す」にされています。それぞれの武将がどんな経済的な戦略を行ったか、非常に面白くまとめておられるので、今日はそのお話をうかがいたいと思います。
●織田家の経済力は「港」から始まった
―― まずは、やはり織田信長ですね。信長の経済政策をお聞きしたいのですが、信長というと鉄砲をいきなり三千挺もそろえたといわれています。当時の鉄砲は相当高価だったというイメージですから、それだけの規模でそろえたのはすごかったともいわれています。しかし、そもそもなぜ織田家にそれだけの財力があったのでしょうか。
小和田 信長は、よく突然変異のように降り立った天才めいた言い方をされますが、実は信長の父親の織田信秀がそういう商品流通経済に長けていた人なのです。
信秀の最初の居城が、今の津島(愛知県津島市)の近くで、愛西市と稲沢市の境に勝幡城という城を構えました。そのすぐ近くに「津島湊」という、当時の木曽川の有名な港町があります。そこを押さえていたので、結構財力がありました。それを見て育った信長自身も、商品流通経済に早くから目覚めていたということです。
父親が押さえた津島湊と熱田湊という二つの港は、伊勢湾舟運のメッカでした。そこを信長もちゃんと押さえたので、港から、あるいは港の商人から上がる冥加金などで、兵農分離を進めたり、鉄砲を買ったりすることができたと思います。
―― 田畑に依拠しない経済だったのですね。当時は、どのようにそこでお金を集めたのでしょうか。
小和田 今風な言い方をすると「関税」ですね。港を出入りする船に税をかけるというものです。
面白い例がありまして、越後の上杉謙信も、江戸時代でいう北前船の日本海側、直江津や柏崎に入ってくる船便に税をかけました。越後は「越後上布」という布の生産地だったので、その売買で船が出入りしていたのです。経済史が専門の方の計算では、船に税金をかけることで年間に4万貫(約60億円)の収入が入ったということです。
多様な物資を東海地方へ経由する伊勢湾でも同様の収入があったはずで、それが信長の兵農分離・鉄砲戦略の資金源になったと思います。
●兵農分離で強くなった織田軍団が出した「禁制」とは
―― 兵農分離は、一般的にはまだ珍しかったはずですね。関東あたりの戦いでは武田・上杉・北条など、特に北条では上杉に攻められて籠城した時、春になるとみんな帰っていったという話があります。
小和田 そうですね。「半農半士」という言い方をしますが、半分農民で半分武士なので、彼らに頼ると長期の戦いはできないのです。お百姓仕事があると、田植えや稲刈りのときには戦争どころではなくなるので、戻っていってしまうのです。
ところが、信長の家臣団はかなり兵農分離が進んでいますので、長期の戦いもできるし、遠征もできる。そういうことで、織田軍(本当は尾張の武士は弱いといわれるのですが)がそれだけの組織だった戦いができるし、鉄砲隊などの集団訓練もできるということで、結構勝ち上がっていきました。
―― 商人たちなどからお金の取り方でいうと、要するに「ここで戦争をやらないから、銭をよこせ」などということもあったようで、税金の名目ではなく、いろいろな集め方をしたといわれています。
小和田 ええ。それは「判銭」という言い方をしますが、信長が最初に行ったわけではなく、他の大名も多少は行っています。「お前のところの町や村を守ってやるから、お金を出せ」ということですね。
村に対して、「禁制」といって「ここで戦いをやってはいけない」「乱暴をしてはいけない」という箇条書きの御触れを出して、その代わりにお金を取る。その大きな事例が、石山本願寺や堺に「矢銭(軍事費)」を出させたことです。お前のところでは俺たちの軍勢は乱暴をしないから、その代わりに安全保障のお金を出せ、ということで、結構お金を集めています。


