●秀吉の功績を支えた二人の補佐役
―― 皆様、こんにちは。
小和田 こんにちは。
―― 本日は小和田哲男先生に、豊臣秀吉、豊臣秀長、石田三成という3人を取り上げていただき、リーダーと補佐役についての講義をいただこうと思っております。小和田先生、どうぞよろしくお願いいたします。
小和田 よろしくお願いします。
―― 秀吉は昔から大人気の武将であったわけですが、堺屋太一さんが秀長の小説(『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』PHP文庫)を書かれた頃から、一躍リーダーと補佐役の関係に焦点が当たるようになりました。
小和田先生は中公新書から『豊臣秀吉』というご本を出版されている一方、PHP新書では『石田三成』というご本もお書きになっています。家臣団の中におけるリーダーの役割、補佐役の役割ということで、今日はお話をおうかがいできればと思っております。
小和田 はい。
―― その前に、まず秀吉という人の特徴ですね。このようなリーダーの下にこのような補佐役、というところがあると思いますので、秀吉のリーダーとしての特質をお聞きできればと思います。
小和田 秀吉自身がすぐれた才能を持つ、突出した武将であることは確かです。ただ、世間一般でよく言われることですが、一人の個人の力量にはある程度限界があります。その点、秀吉の場合はすぐそばに弟の秀長がいたし、ある程度天下の政権が固まってきた頃には、石田三成という有能な部下がいた。その二人に支えられた側面があります。
どうしても教科書的な記述、あるいは概説や年表など、ほんの数行で書くとなると、全部秀吉一人の功績のように書かれてしまうのですが、その裏には実は弟の秀長および三成の働きがあった。それでようやく秀吉という一人の人間が表に出て完結する、といった捉え方ができると思います。
●秀吉は天下人になる途上で性格が一変した
―― 秀吉に関しては、『太閤記』はじめいろいろな物語が流布しているため、いわゆる実像と物語の中の人物像が混じってしまうところが多少あるかと思います。この『豊臣秀吉』のご本の中では先生が、その腑分けのようなことを大分していらっしゃいます。
小和田 はい。
―― 人物像として、彼が明るい人物であったことはもう間違いないところなのでしょうか。
小和田 若い頃については間違いないですね。それが、あるときを境にしてガラッと人格が変わるというのが、私の秀吉論です。
確かに若い頃の彼は実に庶民的で、「自分は貧しい百姓のせがれで」と包み隠さず周りにも言っています。それが、天下人になっていった時点からガラッと人格が変わってきた。これが、面白いところというと失礼かもしれないですけれど、秀吉のちょっと変わったところかと思っています。
●「槍働き」より手柄を上げた秀吉の「話し上手」
―― 彼は当然、織田信長に仕えて出世していくわけですね。織田家臣団の中では、本当に入ったばかりの低い身分の「小者」だった頃から、周りの人びともみんな秀吉のことをよく分かった上で付き合っているようなところがありました。信長の家臣団の中では明智光秀も比較的そうでしたが、代々の家臣ではない。
小和田 今でいう「中途入社組」ですかね。
―― はい、中途入社組ですね。氏素性が必ずしも固まっていないような人たちが大出世をしていくという特徴がありました。
小和田 これは、やはり信長だからこそ、です。秀吉がもし別な武将に仕えていたら、たぶんあそこまで出世できなかったでしょうね。要するに、信長の抜擢人事、よくいわれる能力本位の人材抜擢があったお陰で、秀吉は芽が出たわけです。
なぜかというと、秀吉自身はそんなに武功はありません。背もそれほど高くないし、描かれている彼の画像を見てもどれも華奢ですから、あまり腕力はないのです。もしも普通の武将の家に仕えて、いわゆる「槍働き」だけで評価されていたら、たぶん一生、せいぜい足軽止まりでしょうね。
―― いわゆる槍働きというと、戦場での働きですね。
小和田 そうですね。極端な話、敵の首をいくつ取ったとか、大将の首を取ったという手柄によって出世していくことがあるわけですけれども、それは秀吉にはない。むしろ「同期入社組」の前田利家などのほうがはるかに早く出世して当然なのですが、なんと秀吉のほうが前田利家を追い抜いていく。これは他の家臣団の人事ではあり得ないことです。
―― 確か秀吉が2番目の「城持ち」武将になるわけですかね。
小和田 そうですね。光秀が1号で、秀吉が第2号です。
―― おそらく家臣からすれば、城持ちになるかどうかというのは大出世かどうかの大きなポイントだと思いますが。
小和田 そうです。
―― 下の身分から取り立てられて、秀吉が2番目の大出世をした。先ほど、秀吉に槍働き...