●部下からの「異見」が組織存続の分かれ目
―― 前回のお話では、上からする「たすき掛け人事」のような、補佐役についても後継人材を育てていくこと。さらに上になればなるほど、自らのブレーントラストとして、多彩な人々を交えた知の集団をつくっていくことの重要性を、教えていただきました。
逆に、下の補佐役的な立場の人から、豊臣秀長の成功例や石田三成の例を見たときに、こういう人たちはどういう形で仕えていけばよろしいものなのでしょうか。
小和田 ひと言でいうなら、「五奉行」といわれたような人たちが、秀吉に「異見」が言えるような関係を持てていれば、まだ違ったと思いますね。「イケン」というのは、今は意味する「意」に「見る」の字を書きますが、昔は「異なる」に「見る」の字で、「異見(イケン)」と読んだ。だから、「殿、これは違いますよ」と言える人がどれだけ配下にいるか。それによって組織は永続するか、そこで終わってしまうかの、結構分かれ目になったと思います。
―― それを言える知恵といいますか。秀長の場合は3歳下の弟ですから、普通に言えたのでしょうけれども、「言う知恵」というのは何かあるものなのでしょうか。秀吉軍団に限らず、何かいい例というのは、先生、ございますか。
小和田 これは、武将たちの家訓などを見ても、「ちゃんとものを言える部下がいないと駄目」ということは、昔の人も考えています。
有名な例では、黒田官兵衛の息子の黒田長政が月に3回、家臣の意見を聞く会を開いた。普通は、例えば足軽が長政に何か言うときに、直接にはなかなか言えない。足軽の組頭とか足軽大将を経て家老に伝わり、家老からようやく長政に通じるわけですが、そのあたりを気づいていた長政としては、やはり生の声を聞きたい。直に聞きたいということで、そういう会を開いたわけです。
これなどは、非常に先見性があると思います。むしろ、下の声を汲み上げる。なにも補佐役でなくてもよく、もっと下の一兵卒でもいいわけですから、そういうものにもちゃんと聞く耳を持つということです。
●豊臣政権自滅の必然性とリーダーの役割
小和田 だから、秀吉の失敗は、最後に聞く耳を持たなくなってしまったがゆえに自滅したと、私は理解しています。
―― そうすると、やはりこれは部下の立場からはなかなか変えられるものではない。
小和田 ないですね。だから、豊臣政権があれだけで自滅していくのも、やむなしかという気はします。
―― そうすると、部下が言えるか言えないかではなくて、言いやすい環境をつくれるかどうかも含めて、むしろリーダーの役割になってくるということですね。
小和田 そうそう。リーダーの役割は、聞く耳を持つこと。異見に耳を傾ける態度を取るのがリーダーの責任でしょうね。いかにそのように持っていくかは、補佐役の役割ということもありますけれどもね。
―― 補佐役との関連からは横道にそれますが、最近の日本企業でも、どちらかというとお家騒動や内部対立などの言い回しを聞くことが、ままあるようになりました。
秀吉家臣団も、一旦はまとまっていたものが、千利休が切腹させられたり、豊臣秀次が切腹させられたりした後、武功派と奉行派が分裂する。つまり自己崩壊の過程で、家康の天下に移っていくというような流れになると思います。そういう内部崩壊や派閥争いのようなものを避けるための知恵というのはあるのでしょうか。
小和田 内部分裂には、ある程度必然的な部分もあります。やはり、それぞれの意見の違いが当然あるわけで、それをどううまくまとめていくかは、これこそリーダーの役割かもしれないですね。
●北条氏の「小田原評定」は集団指導体制へのヒント
―― ここはうまくやったという事例は、あるのでしょうか。
小和田 北条氏の場合、最後に秀吉に滅ぼされますが、俗にいう「小田原評定」がそれに当たります。小田原評定といえば、いろいろな意見が出て、結局まとまらなかったというイメージですね。
―― 何も決まらないで、だらだら続くという。
小和田 だらだら続いた会議といわれるけれども、そうでもないですよ。本当の小田原評定というのは、評定衆というのを月に3回集めて。
―― 3回集めるのですか。
小和田 はい、そこで議論させて、集団指導体制にもっていく感じですね。北条氏は、最後に秀吉に滅ぼされたから「駄目武将、駄目大名」と言われてしまうのですが、私は「いやいや、なかなかあの組織はすごいよ」と、けっこう高く評価しています。そういう集団指導体制も重要だという気がします。
―― 確かに秀吉政権は、秀頼で滅びるので実質1代ですが、小田原の北条氏の場合、あのとき既に5代まで来ています。有名な開祖がのし上がった北条早雲で、これにも諸説がありますが、1代であれだけ...