●秀吉軍団の束ね役となった弟・秀長
―― アイデアマンであり人たらしである秀吉が、自分がだんだん出世するに従って秀吉軍団というものを形成していくようになるわけですね。その秀吉がトップにいる軍団で、チームを束ねたのはおそらく弟の秀長だと思うのですが、どういう役割分担をしていたのでしょうか。
小和田 秀長は途中から秀吉の家臣に入ってきます。
―― これは、いつぐらいのことですか。
小和田 これがよく分からないのです。ただ、秀吉がある程度出世して、家臣が必要になってきた時期でしょう。それまで弟の秀長は、尾張で農業経営すなわちお百姓仕事をしていた。それを引き上げて、家臣になる。その時点では家臣団の数はたぶんそれほど多くないから、別に束ねるというほどではなかった。でも、家臣の数がだんだん100人、200人と増えるにつれて、自分の分身である弟・秀長にそれを束ねさせるような役割分担をしていったのではないかと思います。
―― 秀長は秀吉の弟ということですけれども、父親の違う弟という説もあれば、父親も母親も一緒の実の弟という、両方の説があります。小和田先生は実の弟であろうという見方をされていますね。
小和田 それは私が秀長のことをいろいろ調べていて分かったことです。彼の生まれは天文9(1540)年で、父親の弥右衛門が亡くなるのが天文12(1543)年です。お母さんの「なか」が浮気をして、別な男との間にできたということなら別ですが、夫が生きているときにそれはないと思います。そうすると当然、父親は弥右衛門で、実母、実父、実の兄弟という捉え方のほうが正解ではないかと思っています。
―― そうすると、秀吉は天文6(1537)年生まれでしたね。
小和田 天文6(1537)年生まれだから、秀長は3つ下ですね。
―― 3つ下で、しかも実の弟ということになると、小さい頃から比較的分け隔てなく、一緒に遊んだりした。
小和田 ええ。3つ差の兄弟というのは、もう同じように遊んでいますからね。
―― そういう人物が自分の家臣団の中にいると信頼できるというところも含めて、大きいことですね。
●上を見る秀吉、周りを見る秀長の組み合わせ
小和田 秀長の名前が最初に史料に出てくるのは天正元(1573)年から天正2(74)年で、ちょうど秀吉が長浜城主になった頃です。自分は長浜城を、自分の城として一生懸命造りたい。だけど、ちょうど信長による伊勢(三重県)長島一向一揆との戦いがあって、そこにも家臣を派遣しなければならない。そういうときに、自分はやはり城造りに専念したいものですから、弟の秀長を自分の名代として送り込んでいく。そのときの記録が、『信長公記』という信長の一番詳しい伝記で初めて秀長の名前が出てくるところです。秀吉はまさに秀長を「自分の分身」だと思っていた節があります。
―― 秀吉の場合は人たらしでアイデアマンという話でしたが、秀長という人は人物像的にはどういうことになるのでしょうか。
小和田 残された資料で分かることは、それほどありません。ただ、いろいろな行動などを見ていると、秀吉はあだ名が「さる」というぐらいで、すばしっこい。だけど、秀長は結構悠然と落ち着いている。同じ兄弟でも、そこはまったく違います。秀吉のほうはちょこまかちょこまか動いて、走ってから考えるようなタイプです。弟の秀長はむしろじっくり考えてから動くような人。だから、二人は人間性の違う組み合わせとして、結構うまくいっていったのでしょう。
―― アイデアマンで、人たらしで、ちょこちょこ動く人物にとって、信頼できる人がどっしり構えてくれると、家臣団を養っていく上でどういうメリットが考えられるでしょうか。
小和田 当時は、ちゃんといい働きをした者には、やはりいい俸禄を与えなければいけない。上に立ってしまった秀吉にはそんなに下まで全部目配りができるわけではない。そのへんの家臣団の優劣というと語弊があるかもしれませんが、いわば出来がいいのか、そうでもないのかということをちゃんと見極めているのは、むしろ弟のほうの目配りだったと思いますね。
―― 確かに秀吉のように行動をしていく人物からすると、あまりじっくり物事を見るということ、特に自分の家臣団についてじっくり見るというのは得意ではない可能性もありそうですね。
小和田 そうですね。自分の働きのほうに目一杯というか、自分がいかに信長から目に留まるようにするかというほうに一生懸命でした。だから、秀吉は結構上を見ている、秀長はちゃんと周りを見ている。そのへんの二人の組み合わせがうまくいっていると私は感じます。
●内政だけでなく軍事面でもすみ分けをしていた秀吉と秀長
―― やはり武士の世界では、いわゆる評価が大事ですよね。
小和田 論功行賞ですね。
―― はい、これを間違えてしま...