●関ヶ原の戦いにつながる朝鮮の役の苦闘
―― 朝鮮の役が起こると、朝鮮に渡って苦闘している武将たちと石田三成との間には非常に深い溝ができますね。
小和田 そう。それが関ヶ原の戦いに持ち越されるわけですから、これは大きいことです。
―― これは、なぜそういう溝ができてしまったのでしょうか。
小和田 これはやはり三成が豊臣秀吉の命令を忠実に伝えたこと、しかも「軍監」という地位について、朝鮮における豊臣の武将たちの実際の働きはどうかを見張ったことです。見張り役はやはり見張られた側からは嫌われます。しかも三成の性質上、忠実に報告してしまいますからね。例えば、加藤清正などは呼び戻されたりもした。
そういう恨みつらみというのは、言葉はちょっと悪いですが、秀吉の尻ぬぐいのようなことを三成がさせられていたからです。それが、豊臣政権の中でのいわゆる奉行派と武功派の暗闘につながってしまったという印象を持っています。
―― 非常に難しいのは朝鮮という場だったからかもしれませんね。秀吉は北九州の名護屋までは行っていますけれども、朝鮮には渡っていません。当時の秀吉からすれば、「朝鮮などは早く攻め取って、明へ行け」というつもりなのに、現地では苦戦が続いている。秀吉からすると、「何をやっている。早く攻めろ、攻めろ」ということになりましょうし、現地では「いやいや、なかなか」となる。非常にリーダーのあり方が問われるところでしょうね。
小和田 そうですね。あの時点での秀吉の朝鮮出兵というのは、私は大きな失敗だと思います。歴史に「もし」はあり得ませんが、もし秀長が生きていれば、あの朝鮮出兵はなかったと思うのです。天正19(1591)年の秀長の死が、豊臣政権に暗雲を呼び込む大きなきっかけかなという気がします。
●弟・秀長を失った豊臣秀吉、諫言する家臣に恵まれた徳川家康
―― その頃になると、豊臣家臣団が天下を取っていったときの機能は本当に四分五裂していて、千利休も難癖をつけられて切腹させられますし、黒田官兵衛も警戒されて…。
小和田 隠居させられます。
―― まさに前回、先生がおっしゃった「暴君」としての姿になってくるのかもしれないですが、その辺の秀吉の姿についてはどう見ておられますか。
小和田 秀長が亡くなったけれども、「殿、これは違いますよ」と言える家臣がいれば良かった。このあたり...