●外国との窓口として松前藩を幕藩体制へ組み込んでいった
山内 もう一つ、忘れてはいけないのは、三つの口の他にもあるということです。外国との窓口を「口」と呼ぶのですね。対馬口、長崎口、琉球口と、もう一つ、松前口というのがあるのです。
松前口というのは、旧国名でいうと、まず北辺の弘前などを中心とする陸奥国ですね。さらにそこから海峡、海を越えて、蝦夷(えぞ)、渡島(わたりしま)、大島と呼ぶ地域が、ずっと北方に無限に広がっていたわけです。これは、近代の国際法や、国際的な地域概念や、地図の概念がない時代ですから、どこまでが日本かは確定していないわけです。
それから、後に進出してくるロシア。それから清朝は、もともと満州族から発展しましたから、ツングース系で、アムール川の下流域、そういう地域まで中国です。満州族としての清朝は、広く勢力を伸ばしていました。このあたりは、国の力あるいはインフルエンスというものが、ちょうど重なるゾーンだったわけです。
それと同時に、北方諸民族という地付きの先住民族がいました。日本人に一番よく知られているのは、アイヌ、アイヌ民族です。アイヌの北には、さらにニヴフとか、ウイルタという、いわゆる昔、ギリヤーク、オロッコと呼んだようなツングース人たちが開かれていた。
彼らを通して、毛皮であるとか、魚類であるとか、それからのちに俵物貿易といわれますが、長崎から出していくところの数の子とか、それからヒレですね。それから後、昆布であるとか、身欠きにしん、鮭、そういう、いわゆる魚のかすといったようなもの。こうしたものは、北方のほうから来るわけです。それをいわば貿易口として、公式に認知されるような国家がそこにあったわけではないけれども、松前藩として幕藩体制の中に組み込んでいくわけですね。松前藩を介して蝦夷地とも関係を持つわけです。
―― そうか、幕藩体制の中に組み込んでいくのですね。
山内 当時、松前や北海道は米が取れませんから、封建領主としては非常に異例なのですが、米に関しては生産高ゼロ国なわけです。
対馬藩もあまり取れないのです、米は。だけど、対馬藩は後に朝鮮との外交関係を扱うから、10万石格という、格を与えられます。
松前藩は、最初は1万石格でした。幕末になると、3万石格になります。これは、ロシアへの備えや、ロシアとの関係が出てくるからです。幕末頃の松前藩の藩主は松前崇広(伊豆守崇広)というのですが、彼は陸海軍総奉行、老中格になるぐらいの人物です。ですから、そういう海外への認識というものも、徳川家康はちゃんと持っていて、これが特徴ですよね。
海外への認識は豊臣秀吉も持っていました。けれども、秀吉の場合は常に、ある種の侵略とか、攻撃的な要素があった。家康の場合はどちらかというと、きちんとした共存、あるいは協調、そういう要素で海外への関心を持っていくという違いがあるわけです。
●高い教養を身に付けることができた駿府時代の幸運
―― 積み上げてきた勉強の仕方が違うというか、秀吉は勉強の仕方が実学ですよね。築城したり、攻めていったり、水攻めにしたり、ばら撒いて人心掌握したり。だけど、家康はやっぱりこう、『貞観政要』だったり、自分の周りに優秀な、天海和尚とか、学者をいっぱい登用しますよね。
山内 おっしゃる通りだと思います。秀吉の特徴というのは、実学という言葉をおっしゃいましたけど、学として実学というようなものさえあったかどうかも、少し疑問かもしれません。生まれつきの才覚、知恵、そういうものとして言えば、彼は独学型というか、おのずからから身に付いたものです。言ってしまうとこれは、田中角栄型のような人物です。田中角栄さんは、非常に明るく、そして開かれた人で、秀吉のような残酷な人ではなかったけれども。
そこをちょっと置いておくとすれば、角栄さんのように、そういう学歴とか、あるいはそういう正規の東京帝国大学、あるいは帝国大学、商科大学のような教育というのは受けていない。けれども、実質的に、やはり現実というものを扱う政治家としての才能や経験値が非常に高かった人ですよね。そういう意味でおっしゃる実学であれば、秀吉がまさにそうだったわけです。
家康の場合は、若い時に非常に苦労したわけです。今川へ人質に行く。その前に織田に人質に行く。この織田に人質に行くのも、織田家に売られたわけです。これは売ったのは誰かというと、母である於大の実家である水野家なのです。家康の父は宏忠ですね、そしてその妻が於大です。
―― なるほど。水野家に売られてしまう。
山内 だから、最初から、小さい時から、家康は辛酸をなめているわけです。そして今度は、駿河のほうに捕虜の交換でいきます。信長の兄の信広というのが、安祥の戦いで...