●50年間も権力のトップであり続けた徳川家斉
―― 山内先生、今日は11代将軍・徳川家斉の、1787年から1837年までの50年にわたる治世を、特に田沼意次を罷免して松平定信を老中に任命するあたりから、教えていただければと思います。
山内 人間が今でも50年間(大御所時代は3年間だったので、それを併せて53年間)も現役で、しかも権力のトップにいるのは大変なことです。
―― すごいことですね。
山内 世界史で見ても稀有なことです。家斉以外、あまり思い当たらないと思います。それができ得たのは、一にも二にも家斉が健康だったということです。
それから二つ目には、彼は若くして、15歳くらいで将軍になっている。そして、意外と長寿ではありませんでした。古稀(70歳)の手前、あと一年経てば“人生古来、稀なり”の古稀になったのだけれど、69歳まで生きている。その間、事実上、権力のトップにあり続けた。ですから、彼がやはり健康であったということが一つあります。
それから、どんなに健康であっても根本的なところで、権力のトップとはいえ勘が狂ったり、判断力が鈍ったり、物事の軽重を忘れたり、いろいろなことで失敗する人間が多いものです。ですが、家斉がすごいと思う三つ目として、彼の政治能力がどういうものであったかということがある。今回のシリーズでもこれから議論すると思いますが、そのときどきに見合った老中たち、宰相たちを起用して、その時代と自分の今いるポジションを的確に理解し、宰相に任せるという構造を取っていきました。しかし、肝心の政策決定は自分が握っていた。
考えて見ると、最初に選んだのは松平越中守定信(寛政の改革)、それから最後は沼津の城主だった水野忠成(みずの・ただあきら)で、2人は全然性格が違います。この水野は、田沼と並ぶほど腐敗や汚職の徒と言われているのだけれど、そういった人物に至るまで適格に、時代の要請、あるいは自分の問題関心に合わせるかたちで変わることができた。そのような判断力がありました。
●自分の血統で天下に血を分けていく
山内 それから四番目として、これは極端に語られるけれど、家斉ほど政治(公的生活)と大奥(私的生活)という空間を巧みに利用して政治を行い、かつ人生もエンジョイした人間は稀有だということです。
―― すごい話ですね。
山内 それは全くの純粋な享楽や快楽だけのためだったかというと、必ずしもそうでないところが、家斉の器量、力量というものです。基本的に徳川の将軍家は、秀忠(2代将軍)の血が家継(7代将軍)で絶えたように、いつ自分の血が絶えるかわからないという不安感を持っていたのです。したがって吉宗(8代将軍)は、紀州から出た自分の血筋で将軍家を固めようという意図があって「御三卿」(ごさんきょう)という制度をつくったわけです。
御三卿でも、田安家、清水家はあまり繁栄しないのですが、一橋家は繁栄していく。それは家斉が生まれたからです。でも一橋家も、最後には人を外に出したりした結果、肝心の一橋家の本家を継ぐ人間がいなくなったわけです。それでどうなったかというと、水戸徳川から慶喜を養子に迎える。この慶喜が、一橋家を継ぎながら15代将軍になり、徳川に引導を渡すことになる。
ということで、血というものはいつ絶えるか分からないということがあったわけです。従って家斉は、血を絶えず増やしていく。死んでいく(夭逝していく)率も非常に高いのです。あるいは出生と同時に死ぬ。こういった危険性がありましたから、できるだけ自分の血統で天下に血を分けていくという発想があったわけです。宗家を絶やさない、と。
家慶が12代将軍を継ぐわけですが、家慶以外の子どもは尾張、紀州(紀伊)、それから越前松平、作州津山の松平など、いろいろなところに入っていく。外様大名で一番有名な蜂須賀にも入っていく。
―― 蜂須賀もそうですか。
山内 蜂須賀もそうです。それから、小さいところでは八戸の南部にも入っていく。とにかく、あちらこちらに血を撒いていくことになる。
そうすると、全体としておそらく家斉の頭の中にあったのは、自分の血で各地を押さえていくと安定するだろうということです。上から目線なのですが、上からの血というものを安定的に継承していけば、徳川の治世、ひいては「パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」は持続するだろう、と。
娘に至っては、さらにすごいのです。今の東大赤門は「御守殿」といって、溶姫(ようひめ)が加賀の前田家に嫁ぐ時に造られたという話はあまりにも有名です。家斉の血が100万石の加賀、103万石の前田に入る。それから浅野家にも入る。肥前鍋島家にも入る。その他、あちらこちらに自分の血筋が入っていくわけです。
先ほど言ったように、男系では御三家の尾張や紀州に入って...