●厳しい倹約政策のせい!? 圧力がかかって幕府から外された斉昭
―― 徳川斉昭が44歳の時に、(幕府が)バサッと斉昭を外した。これはたいしたものですよね。
山内 それはなぜだったのか。いくつか理由はあるけれども、徳川家慶本人からすると、やはり斉昭が煙たいといえば煙たいのです。それから、改革をやっていく上で水野忠邦も斉昭を煙たがった。斉昭も同じようなことを行っていて、基本的には倹約政策だったのですが…。
それから、この考え方は幕末にかなり強まるのだけれども、例えば徳川家康を東照大権現とする思想は本来神道であって、神道一道でやるべきはずのものなのに、天台宗の天海大僧正が食い込んできて、天台宗と神道とを混淆させた形で行うということで、東照大権現の存在を歪めたのです。
それから、江戸時代に日本の信仰や宗教をおかしくしたのは仏教だったのです。実際、江戸時代を通して、水野の「天保の改革」もすごいけれども、取り締まりをいろいろと行います。その取り締まりは、芝居をとにかく徹底して叩く。歌舞伎も叩く。それから、今でいうところの出版統制も行ったりする。同時に、宗教信仰にも厳しい。
あとは風俗です。合法化された吉原以外の場所は「岡場所」と呼び、隠し売女(隠れて色を売る)がいました。これは風俗を損ない、かつ勤労の成果を蝕んでいくということで禁止していく。
もう1つ、忘れてはいけないのは、仏教に対する目が厳しくなってくることです。何を行うかというと、お寺の住職の姦通――姦通とはこの場合、坊主という清僧の身でありながら女性と通じること――はけしからんと、寺社奉行がときどき摘発するのです。これを水野の時代に大規模に行っています。同時代で多く摘発されるのは、なぜかは興味深いのですが、日蓮宗です。他の宗派ももちろんあります。これをもっと徹底して行ったのが斉昭なのです。
―― 水戸(藩)で行ったわけですね。
山内 常陸で行ったのです。ところが、寺は侮れません。寺は同時に、大奥の女中、夫人たち、側室たちの信仰対象です。それから、将軍の母や、前将軍の誰それとか。特に家斉の側室の1人であるお美代の方は、日蓮宗の強烈な信者です。こういった人間からのプレッシャーがある。
それから京都でも、天皇家は「泉涌寺(せんにゅうじ)」という檀家寺を持っています。ですから、確かに神道なのだけれども、同時に泉涌寺と縁がある。それから天台宗、つまり京都鎮護の比叡山がある。天台宗の比叡山の江戸版が東叡山寛永寺でしょう。つまり徳川家の菩提寺です。こういったところからも圧力がかかる。
●幕府の人事干渉で斉昭に引退勧告
山内 それから私の見るところ、家慶が一番不快に思ったのは、斉昭の(行った)さまざまなことの中でも幕府の人事干渉を行ったことです。
―― なるほど。
山内 (あるとき)幕府の老中の1人が亡くなった。そうすると、彼は手紙(文書)を書くのです。「この後任については信濃の松代藩主・真田幸貫がよろしかろう」と。彼は形式的には外様です。真田信之、昌幸の血が入っている家ですから。だけれども、藤堂家と同じように「準譜代」、あるいは「願い譜代」といって、「お願いします、譜代にしてください」と言って資格審査を受けて、「はい、それでは」と譜代に準じる格になった。しかも、この藩主は実は養子で入っていて、実父は松平定信なのです。名門中の名門で、老中経験者で、吉宗の孫でもある定信と血のつながる子どもですから、吉宗の血ともつながっているし、もちろん家斉とも家慶ともつながっている。ですから、家柄といい、血筋といい、問題はないだろうと。
それは分かる。だけれども、それを言うか、という話です。
―― そうでしょうね。
山内 社長の専権事項である人事に関して、会社の顧問格とはいえ、優秀であっても、名前は同じでも、家康の代ではすでに分かれている家で、ほとんど家慶とは血がつながっていない人間が、「次は○○がいい」と言う。現代を見てもそうだけれども、最終的に社長や会長が何を許せなくて、何を気にするかというと、いろいろなことがあっても人事権を侵されたときで、それはきついらしく、許せないそうです。
家慶は皆が「凡庸だと思った」と言っているけれども、それほど甘いものではないわけです。将軍をやっていて、自分の人事権を侵されたと思ったのでしょう。そうすると、「いったい何様になっているのだ」と。私は、これが大きかったと思います。
そこで家慶は、斉昭に対して有無を言わさず詰問状を突きつけて、「引退せよ」と。これを行ったのは阿部正弘です。阿部は水野が失脚した後、老中になる。水野はどちらかというと、同じ改革派として斉昭を煙たく思ったり、齟齬もあったりしたけれども、基本的にはお互い認め合っていた。つまり...