●将軍就任時、「内憂外患」にさらされていた徳川家慶
―― 今日は12代将軍・徳川家慶のあたりから、ぜひお話を聞かせていただきたいと思います。
天保の飢饉(1833年~1837年)があり、大塩平八郎の乱(1837年)が起きます。しかも、家慶が将軍職に就いて(1837年)から最初の4年間は、徳川家斉(11代将軍)が大御所政治を行うという形でした。その12代将軍・家慶の時代あたりから、いろいろなことが起こってきます。そのあたりを教えていただければと思います。
山内 徳川家15代将軍の中でも家慶がよくいわれるのは、どの当事者、近くにいた人間たちにも、「非常に凡庸な将軍、平凡な将軍だ」ということです。難しい言葉を使った人では越前の松平春嶽(松平慶永)が、「庸常(ようじょう)のきみだ」と言った。まったく平凡で、普通の将軍だったというのです。
これは本人の生まれつきのものもありますが、いくつかの要因があります。まず、父親が15代将軍の中でも一番派手な、そして存在感の高い家斉だったということ。家斉は大御所時代を含めると50数年にわたって、事実上の将軍として、あるいは江戸城西の丸に入って大御所として君臨した人です。ですから、家慶は生まれて世継ぎになった後、何もできなかったわけです。そして40歳を過ぎてから、ようやく将軍職に就くことになります。そのような個性的な父親が前代でした。
そして家慶は、何かにつけて家斉と比較されました。これが不幸なのですね。
―― なるほど。50数年の長期政権の後だったからですね。
山内 そうです。半世紀ですからね。
ところが、家慶が将軍になってすぐ迎えた試練は、「内憂外患」です。この「内憂外患」という言葉を幕末政治で初めて使った人は、水戸藩の徳川斉昭(水戸斉昭)でした。慶喜の父親です。
「内憂外患」の「内憂」には、まず飢饉の問題があった。あるいは武家政権の基礎である武士たちの収入が次第に減って苦しい思いをしている。あるいは消費者物価が上がる。そして、江戸の市中に贅沢(奢侈)が伝播していて、人々の生活が苦しくなっていく。これをなんとかしなくてはいけない。幕府の権威も下がっている。
そこに「外患」、すなわち「外からの脅威」を感じるようになった。もともと鯨を捕る船(捕鯨船)が近辺に出没したというところから話は始まるけれども、家慶の時代には完全にそれが見えてい...