●家慶にとって忌々しい存在だった徳川斉昭
山内 したがって、徳川斉昭の存在は、常に徳川家慶にとってはある面で忌々しいものがあったのです。
何が忌々しいか。これは水野越前守忠邦老中が言ったそうです。上様(家慶)は天保の改革を行っていて、大変な改革を進めているわけです。そういった点でいうと、徳川吉宗、松平定信の2人は徳川の一族で、それに続けて「自分(家慶)も、一族の先達である吉宗と松平定信に並んで改革を行っている」という意識があるわけです。
そのように天保の改革の推進者としての意識があるわけで、評価される面もある。でも、何をやっても斉昭と比較されたのです。そして、実は家慶が手を付け、水野忠邦が進めたような改革も、「あれは水戸様の後追いだ、水戸様の模倣だ、真似をしていらっしゃるのだ」と捉えられる。家慶にとっては実に心外で、いろいろと(胸に)つかえてくるものがあるわけです。
斉昭という人は、 これは後から話になると思いますが、今でいう、いわゆる「空気が読めない」ところがあるのです。言うことは間違っていない、非常に正しいのだけれど、言うにしても「そのような言い方はないでしょう」「場所というものがあるだろう」といったように、TPOをほとんど欠いた人なのです。
だから、理想を語るのです。「言うだけ番長」という言葉がありますが、大きいことを言う、知ったかぶりを言う、理想を語る。それは素晴らしいわけです。でも、「それを実現する術は?」「財源は?」というと、十分にない。そのような政治家は、過去から現在にかけて、やはりタイプとしているわけです。
●理想は語るが、実現に至るプロセスの考えがない
山内 そういった点でいうと、斉昭のようにスケール感のある政治家はいません。例えば、斉昭は何を構想するか。「北海道」という名前をつけたのは、伊勢出身の探検家・松浦武四郎ということになっている。ところが、松浦よりも早く、斉昭がすでに「北海道」という名前を提言しているのです。
斉昭に話をシフトしますが、斉昭は北海道を開拓しようとする。これは2つ理由があります。まず、このような要所の国防、安全保障です。特にロシアという強力な国が南下してくる。それに対して、支えているのは松前の小藩(小さい藩)です。松前藩は、最初はいわゆる「無高(むだか)」といって幕藩体制史上、あり得ないような格だったのです。米がとれないのです。それではまずいというので、1万石高にする。そこから、やがて幕末は松前崇広(たかひろ)という優れた藩主が出て、老中にもなったのですが、その時は3万石高になる。いずれにしても、基本的には小藩です。
それから南部藩にしても20万石、津軽藩は10万石です。斉昭の時代は、津軽が10万石、南部が20万石、松前に至っては無高あるいは1万石という格です。「このような小藩に(国防を)任せておけるか、できないだろう」というわけです。
ここからがすごい。水戸藩が「私に与えてくれ。私が行って直接、蝦夷地を開拓する。それからロシアと当たる。死ぬ覚悟で行く」と言うのです。面白いのは、彼(斉昭)はこれを本気で言っているわけです。何をするかというと、水戸を明け渡す、つまり常陸を離れると言うわけです。そうすると、南部が20万石、津軽が10万石なので、合わせて30万石です。そして、松前は(やや大盤振る舞いなのだけど)5万石とする。そうすると20+10+5=35万石となる。つまり、「水戸徳川家の35万石だ。これで私はいく」と言うわけです。このようなことは、腹心の藤田東湖にも誰にもきちんと相談していないし、詰めてもいない。
そういった考え方を持っていることは分かっています。でも、きちんと詰めて、家中一党を統一するといったことをしない人です。自分の理想、ビジョン、夢に浸っているわけです。
だけど、実現するプロセスがはっきりしない。水戸藩は、いわゆる副将軍です。それから「江戸定府」といって、藩主は江戸に居住することになっている。そうすると「水戸家の仕事はどうなるのですか」ということになる。「御三家が勝手に穴をあけて」と。
●もし斉昭が幕府の外交を仕切っていたら……
山内 それから、家臣たちが北海道に行って、どうなるか。つまり斉昭は、北海道の気候条件や土壌、それから居住環境を知らないわけです。
だから、米もとれない、正確にいうと水田を作るような場所もほとんどないような場所に行って、水戸藩の家臣をどうやって養うか、どうやって国防力を作っていくかということと現実が結びつかないわけです。
―― まったく考えもできない、と。
山内 例えば冬に、旭川の内陸や富良野の内陸、あるいは十勝の内陸で、どれほど気温が下がるか。マイナス30度、35度といったところには住んだこともないわけです。そのような...