●内政の決定的破綻には至らなかった「安定した時代」
―― 徳川家斉はそういったことを行いながら50年も将軍の地位を守れるのはすごいことですね。それほどこの時代(1787年から1837年)は、最後のほうは飢饉がありますが、すごく安定した時代だったのですね。
山内 安定した時代なのです。地方や農村ではもちろん飢饉や、あるいは浅間山の噴火をはじめとする気候変動などの影響を受けた自然災害も出てくるけれど、家斉の時代は、それに加えて都市の成熟がありました。とりあえず都市へ流入することによって、都市で下層民を形成しつつ、一応、最低限の生活を営む(ことができる)といったパターンが出てくる。これは後に水野忠邦が厳しく、もとへ戻そうとして改革を行うことになるのだけれども。
基本的に家斉の時代は、われわれからすると、非常に安定しているところがあるのです。内憂外患ですが、決定的には内政が破綻しない。財政破綻寸前なのだけれど、そこで巧みに何をするかというと、(幕府の常套手段だけれども)金銀(通貨)の改鋳です。
そうして金の比、銀の比を下げていく。軽くしていく。それによって「出目」(でめ)というのですが、目が出る、出目が生じる(差分の利益が出る)。その出目を基礎にして、幕府財政の赤字を補填する、あるいは幕府経費を浮かすといったことを行っていく。
―― 今の財政金融政策に近いですね。インフレ政策を取りながら、財政も膨らませていくと。
山内 だけど、それは当然、いずれは限界がくるのです。こういった問題は結局、流通にも影響を与えてきますから。ただ、本格的に破綻に近づくのは、家斉の時代でも晩年になります。
それを引き受けて結局、大きな改革を行わなければということで、水野忠邦による「天保の改革」になる。ただ家斉の治世では、まだ放漫財政でやりくりしていた。非常に幸せな男なのです。
―― そうですね。ものすごく運がいいということですよね。
山内 そう、運がいいのです。
●風紀は乱れたが、江戸の文化が爛熟した50年間
―― そうした中、文化、文政という時代に江戸の文化が爛熟します。歌舞伎にしても、浮世絵にしても、あらゆるものが出てきます。結局、この50年間が江戸時代の中で傑出していて、江戸庶民にとってはいい時代だったという理解でいいのでしょうか。
山内 基本的にはそうだと思います。しかし、その背後や基盤を考えてみると、どうかという問題もあります。
例えば芝居小屋について、木挽町(こびきちょう)をはじめとする芝居小屋は他にもありました。「三座」と呼ばれます。もともと歌舞伎の役者というものは一般の常人、勤労者としての町人、商人、職人とは別の世界の、まさに役者だったわけです。だから、居住地も入り混じらないようになっていたのだけれども、家斉の時代になってくると、徐々にそんなことは忘れられて、芝居小屋や芝居の役者たちが混住するようになってくる。そうすると「風紀上、よろしからず」ということになる。
それから二点目として、これは江戸幕府の最初からだけれども、公許、官許の遊郭(色街)と、私(わたくし)の色街があって、本来「私」は許されていません。この場合の色街とは、要するに「色を鬻(ひさ)ぐ」という意味です。
―― なるほど、はい。
山内 いつの時代も公権力はうるさいのです。決まった一定のルールでの色街はいいけれども、そうではないところに関しては、厳しく分けるということになる。ですが、どうしても徐々に拡がるのです。
最初は「朱引き」(しゅびき)といって、江戸の本来の八百八町、江戸の枠内と枠外とを地図上に朱を引いて区別し、「この内はまかりならん」とする。だから、どこで流行るかといえば、枠から少し出ただけの品川、少し出ただけの内藤新宿(大木戸の外だけどほぼ新宿)といった場所です。それから、少し出ただけの千住など。
そういった場所だけれども、それが少しずつ内へ浸食してくるわけです。内藤新宿や千住から、あるいは品川から。これがまた、「私」になっていく。
挙句の果てに、寺院や神社の中に、参詣に来た人間のために「茶屋」などが置かれるでしょう。この茶屋がまた、くせ者なのです。「茶屋の二階や奥で」ということになって、実際に上野の寛永寺の山下辺りや不忍の池などの側には出会い茶屋ができたりする。出会い茶屋の延長で、「私」の色を鬻ぐところも出てくる。
もちろんそれで市民は謳歌しているし、楽しいわけです。人間は働くばかりではありません。江戸の職人たち、商人たちは働いて帰ってくる。健全な家があって、妻や子どもが迎えてくれて、風呂に行く。そして一杯飲む。だけどそれだけではない。同時に、非常に独身者の多い町でしたから、独身者たちの日常生活につきもののことがある。皆、何...