●賄賂が当たり前だった家斉時代
―― でも、(他の国などで)皇帝(リーダー)で50年という長期政権を維持し、しかもいい時代だったという例は、あまりないですよね。
山内 世界史を見ても、なくはなかったと思うけれども、これだけの安定政権として存在したものはないと思います。水野忠成も汚職と疑獄・腐敗の文化、贈収賄をこととした政治家という面が強調されるし、それは事実として否定できない面があるけれども、ただの贈収賄では政治はもたないのですよ。
贈収賄といっても、それは一つの贈答文化です。構造として政治社会がそうなっていたという時代です。例えば、水野忠邦は改革派政治家で、精錬なイメージを与えています。忠邦は第一に、多くの点で賄賂を贈ることによって老中の地位を得た人間です。当時は松平定信でさえ、田沼意次になにがしかの賂(まいない)をしなければ老中までたどり着かなかったでしょう。皆がそういったことをした時代でもあるのです。
家斉政権で一番、清廉潔白だとされているのは、小田原城主であった大久保加賀守(大久保忠真)という人物です。実は大久保も水野忠邦も、大坂城代を経験している。大坂城代を務めると何を経験するか。大坂の商人である三井、住友、鴻池、加島屋といった人間と付き合うことによって、大名家として財政赤字や財政の必要なときに援助してもらう。こういうルートを作ったりもするのです。
それからもっとすごいのは、「無尽」。(つまり)頼母子講(たのもしこう)を行っていたのです。
貧しい人間同士がお互いに融通しあって行う頼母子講は、江戸時代においてもあからさまには禁止されていません。ところが、侍(武家)が頼母子講、無尽を行うことは事実上、禁止されているのです。
無尽というものは、勝ったものが逃げてはダメなのです。勝った人間が無尽からサッと抜けることが許されていたら、無尽は成り立たない。ほぼ賭博になってしまう。だから幕府は、ずっと禁止していたのです。禁止していた老中たちが、実は自分たちが大坂城代などの時に無尽を行って得た金を、老中になるための政治資金として使っていたなんて、洒落にならないでしょう。
大塩平八郎の乱の時、その中でこういう問題がひずみとして出てくるのです。はっきりと告発されたりする。大塩もそういうことを、現役の与力の時代に摘発したりしています。摘発しているけれども、上層部まで届かない。なぜかというと、現役の老中たちが、大坂城代時代に無尽を行い、あまり筋のよくない金を得たなどということを公にしたら、政治は成り立たないでしょう。皆、知ってはいる。知ってはいるけれども、それは建前と本音、公と私(わたくし)というギリギリのところだったのです。
●徳川家斉の放漫財政を担った水野忠成の「汚れ役」
山内 忠邦も実はこれを行っていて、「あなた、そんな偉そうに言えるの?」という面があるわけです。だから、ひいては忠成だけが悪とされるけれども、実は忠邦は、同じ姓(同族)だから、忠成に引き立てられたのです。血は遠くなっているけれども、水野家はもともと名門で、徳川家康を産んだ母親の於大(おだい)の実家が水野家なのです。
―― そうですか、於大の実家が水野家なのですね。
山内 ですから於大の兄や弟など、この家からずっと続いているのが水野家なのです。その血を継承しているのが、忠成や忠邦になるわけです。だから、「同族のよしみ」ということがある。
それから忠邦は、せっせと忠成に、ただ賄をしただけではなく、政治の心がけなどいろいろなことについて、謙虚に出入りして学んだりした。いわば「愛いやつだ」となるわけです。
だから、忠成という、おそらく江戸時代を通して「最悪」といわれている老中がいなければ、実は天保の改革で忠邦は老中になれなかったという構図がある。よって、なかなか評価が難しいところがあります。
忠成は評判があまりにも悪い。ですが忠成は、家斉のためにどうやって金を作るかという仕事もあったわけです。家斉の晩年の贅沢について、いろいろなことが資料でいわれているけれども、家斉のそういう面倒も老中としてみなければいけなかった。忠成はそういうものを背負った面がある。いわば「汚れ役」です。
これは笑わせる本なのですが、家臣たちが、あまりにも主君(忠成)の評判が悪いので、「必ずしもそうではない」「このような良いこともやっている」「このような立派な政治哲学を持っていた」「このようなことを実際におっしゃった」ということをまとめた本があって、題して『公徳弁』(こうとくべん)といいます。「公の徳を弁ずる」ということで、これを私は読む機会がありました。そうすると、一人の政治家として、やはり冴えたところが確かにあるのです。それがなければ、家斉の老中は...