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江戸時代「最悪」の老中・水野忠成が担った「汚れ役」とは

徳川将軍と江戸幕府~徳川家斉(4)水野忠成の「汚れ役」と大塩平八郎の乱

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
徳川家斉
出典:Wikimedia Commons
50年という安定政権を築いた徳川家斉だが、実はその裏では文化として贈答(賄賂)が横行していた。家斉に仕えた老中・水野忠成も、賄賂による政治を行ったことで有名である。だが忠成は、実は家斉政権の財政を担い、さらに「天保の改革」の責任者である水野忠邦を引き上げた重要な人物でもあったのだ。こうした家斉政権の知られざる裏側を、同時期に乱を起こした大塩平八郎の心中と照らし合わせながら解説する。(全4話中4話)
※インタビュアー:神藏孝之(テンミニッツTV論説主幹)
時間:13:00
収録日:2020/12/14
追加日:2023/08/16
≪全文≫

●賄賂が当たり前だった家斉時代


―― でも、(他の国などで)皇帝(リーダー)で50年という長期政権を維持し、しかもいい時代だったという例は、あまりないですよね。

山内 世界史を見ても、なくはなかったと思うけれども、これだけの安定政権として存在したものはないと思います。水野忠成も汚職と疑獄・腐敗の文化、贈収賄をこととした政治家という面が強調されるし、それは事実として否定できない面があるけれども、ただの贈収賄では政治はもたないのですよ。

 贈収賄といっても、それは一つの贈答文化です。構造として政治社会がそうなっていたという時代です。例えば、水野忠邦は改革派政治家で、精錬なイメージを与えています。忠邦は第一に、多くの点で賄賂を贈ることによって老中の地位を得た人間です。当時は松平定信でさえ、田沼意次になにがしかの賂(まいない)をしなければ老中までたどり着かなかったでしょう。皆がそういったことをした時代でもあるのです。

 家斉政権で一番、清廉潔白だとされているのは、小田原城主であった大久保加賀守(大久保忠真)という人物です。実は大久保も水野忠邦も、大坂城代を経験している。大坂城代を務めると何を経験するか。大坂の商人である三井、住友、鴻池、加島屋といった人間と付き合うことによって、大名家として財政赤字や財政の必要なときに援助してもらう。こういうルートを作ったりもするのです。

 それからもっとすごいのは、「無尽」。(つまり)頼母子講(たのもしこう)を行っていたのです。

 貧しい人間同士がお互いに融通しあって行う頼母子講は、江戸時代においてもあからさまには禁止されていません。ところが、侍(武家)が頼母子講、無尽を行うことは事実上、禁止されているのです。

 無尽というものは、勝ったものが逃げてはダメなのです。勝った人間が無尽からサッと抜けることが許されていたら、無尽は成り立たない。ほぼ賭博になってしまう。だから幕府は、ずっと禁止していたのです。禁止していた老中たちが、実は自分たちが大坂城代などの時に無尽を行って得た金を、老中になるための政治資金として使っていたなんて、洒落にならないでしょう。

 大塩平八郎の乱の時、その中でこういう問題がひずみとして出てくるのです。はっきりと告発されたりする。大塩もそういうことを、現役の与力の時代に摘発したりしています。摘発しているけれども、上層部まで届かない。なぜかというと、現役の老中たちが、大坂城代時代に無尽を行い、あまり筋のよくない金を得たなどということを公にしたら、政治は成り立たないでしょう。皆、知ってはいる。知ってはいるけれども、それは建前と本音、公と私(わたくし)というギリギリのところだったのです。


●徳川家斉の放漫財政を担った水野忠成の「汚れ役」


山内 忠邦も実はこれを行っていて、「あなた、そんな偉そうに言えるの?」という面があるわけです。だから、ひいては忠成だけが悪とされるけれども、実は忠邦は、同じ姓(同族)だから、忠成に引き立てられたのです。血は遠くなっているけれども、水野家はもともと名門で、徳川家康を産んだ母親の於大(おだい)の実家が水野家なのです。

―― そうですか、於大の実家が水野家なのですね。

山内 ですから於大の兄や弟など、この家からずっと続いているのが水野家なのです。その血を継承しているのが、忠成や忠邦になるわけです。だから、「同族のよしみ」ということがある。

 それから忠邦は、せっせと忠成に、ただ賄をしただけではなく、政治の心がけなどいろいろなことについて、謙虚に出入りして学んだりした。いわば「愛いやつだ」となるわけです。

 だから、忠成という、おそらく江戸時代を通して「最悪」といわれている老中がいなければ、実は天保の改革で忠邦は老中になれなかったという構図がある。よって、なかなか評価が難しいところがあります。

 忠成は評判があまりにも悪い。ですが忠成は、家斉のためにどうやって金を作るかという仕事もあったわけです。家斉の晩年の贅沢について、いろいろなことが資料でいわれているけれども、家斉のそういう面倒も老中としてみなければいけなかった。忠成はそういうものを背負った面がある。いわば「汚れ役」です。

 これは笑わせる本なのですが、家臣たちが、あまりにも主君(忠成)の評判が悪いので、「必ずしもそうではない」「このような良いこともやっている」「このような立派な政治哲学を持っていた」「このようなことを実際におっしゃった」ということをまとめた本があって、題して『公徳弁』(こうとくべん)といいます。「公の徳を弁ずる」ということで、これを私は読む機会がありました。そうすると、一人の政治家として、やはり冴えたところが確かにあるのです。それがなければ、家斉の老中は...
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