●明治維新の事実を知ることに、どんな意味があるのか?
(今回のシリーズレクチャーの)主題は、明治維新とは何だったのかということです。今回のシリーズレクチャーのハイライトはシリーズ最終話の方で、明治維新は今のわれわれにとってどういう意味があるのかということです。
少し前触れをしますと、今の日本をめぐる内外の状況は幕末の日本にかなり似ているのではないかと感じています。明治の先君たちは幕末を越え、維新を経て近代国家をつくりましたが、これからのわれわれがどうするのかという問題に直結しているような気がします。どうぞ、そのあたりを、聞いて、考えてみていただきたいと思います。
私の講義では、「私がこう考えている。だから、こうだ」という言い方はほとんどしません。事実を知ってもらいたい。ここまで詳しく事実を語るケースは、ほとんど持たれたためしがないと思います。全般的に、例えば皆さんが明治初年の猪苗代や大坂(大阪)にいたような、あるいはそれが目に浮かぶような話にしたいと思います。
最初は少々、総論に当てます。歴史を学ぶのは趣味ではなく、未来へのヒントを得るためだろうということです。明治維新については、いろいろな解釈や歴史観があります。それは、未来をどう考えるかという参考にするためです。
ただ、「これで参考になるでしょう」という言い方は、私はしません。歴史観は一つの手掛かりです。あくまで事実を率直に振り返ってみて、その中から皆さんがどういう理解をするかがポイントだと思います。その上で、日本の未来への設計を考えたいということです。
●官軍史観・占領軍史観に対抗した司馬史観と「鬼胎」
「歴史観」という言葉を使いましたので、ここで私なりに感じた五つの歴史観を挙げさせていただきます。
前回のシリーズレクチャー(「明治維新とは~新たな史観の試み」)でもお話ししましたが、一つ目は、「薩長(官軍)史観」です。薩長がなければ日本の近代化はなかっただろうという考え方、今日の日本は薩長がつくったという考え方です。安倍晋三首相も長州出身ですから、その系統に含まれます。これが、日本の「正史」になってきました。
二つ目に挙げたいのは、「占領軍史観」です。東京裁判が行われて、「日本の行為は全て悪だ」と宣告されました。歴史観としては、「戦前の日本には、見るべきものはまったくない。日本がいい国になったのは、民主化したからだ。それを行ったのは占領軍だ。歴史的には何も見るものがない」という考え方です。
日本の左翼思想は、どういうわけかこれとほとんど瓜二つで、やはり「戦前には見るべきものがない」といいます。「戦前とは?」と問われると、「半封建的な軍事国家である。民主革命も何も行われていない」と答えます。この見方は占領軍と非常に酷似しています。
三つ目ですが、これらに対して、「ちょっと待ってくれ。それは違うだろう」と敢然とチャレンジしたのが司馬遼太郎でした(司馬史観)。彼の膨大な著書の中には明治の元勲について詳細に描いたものはなく、志半ばで倒れた人たちの努力を詳しく追いかけたものが多いのです。例えば、大村益次郎(『花神』)もそうですし、坂本龍馬(『龍馬がゆく』)もそうでした。
日本民族にそれだけのエネルギーがあったことを真正面から見る必要があるのではないかということ。そのことが、司馬氏が100冊以上の書物を著すためのエネルギーになっていたと思います。
彼は『文藝春秋』の巻頭言を長く担当していました。その中で、「昭和に入ってからの日本をもっと分析したかった」という思いを吐露しているうちに亡くなってしまいます。残された言葉の中に、一言「日本は鬼胎の国になったのではないか」というものがあります。「鬼胎」とは、子どもをはらんだものの、出てきた子は鬼だったということです。その系譜の源流は明治維新にあるのではないか。そういう問題意識を持っているうちに亡くなられました。これは意味が深いと思います。
●「明治維新過誤論」と「歴史の流れの必然を見極める」史観
四つ目は、司馬遼太郎と同列に扱うわけではありませんが、最近、非常に流行しているシリーズを書き続けている人たちの史観です。
原田伊織氏が代表格で、鈴木荘一氏という著者もいます。彼らの史観は、「明治維新は失敗だった」ということがポイントです。しかも、「薩長は見るべきものはまったくない」と言う。それは言い過ぎだろうと思いながらも、事実を細かく洗っていくと、そう言われてもしようがない箇所がたくさん出てきてしまいます。
身も蓋もないのですが、そういうところは今日も、事実の中ににじみ出てきます。それら全て、事実を通して知った上で、皆さまのお一人お一人が考え、未来への手掛かりを得ようとする中...