●四民平等の徴兵制とプロシア式による兵制改革
陸奥はまず、津田出(いずる)という蘭学の先駆者を訪ねます。当時、欧米の兵制については日本の最高権威でした。彼の助言を得ながら抜本改革を行います。侍の家禄を20分の1に削減して財源を捻出するといった、思い切った案でした。
明治2(1869)年、津田はプロシア式を採用しようと、カッピンというプロシア将校を雇います。同時に、士農工商を問わず、20歳になると全ての男子に徴兵を適用。兵役3年の後、第一予備役4年、第二予備役4年で、11年間服役せよというのです。
この軍隊が、廃藩置県で解散される頃にはすでに2万人になっていたといいます。兵の行進は全てプロシア式で、一糸乱れず正確な動きを展開します。弾薬製造所ではツンドネーデル銃用の弾丸が、ドイツと同様に毎日1万個ずつ製造されていました。
この噂を聞き付けて、パークス英公使、デロング英公使、ブランドドイツ公使、薩摩からは西郷隆盛に促されて西郷従道と村田新八らが見学に来ていました。
このような紀州(和歌山藩)の兵制改革は、実は明治維新の流れを決定的とする影響があったという説があります。つまり、廃藩置県も秩禄処分も徴兵制も、この藩の動きなしにはあり得なかったのではないか。それが岡崎久彦氏の観察です。
●中央の布告にも敢然と「四民平等」で論駁
これに最も衝撃を受けたのは、おそらく薩長だったでしょう。この兵隊があれば、薩長の兵隊など問題にならないと、カッピンも陸奥自身も考えていました。いずれは紀州から10万の兵を出すことも不可能ではない。薩摩77万石、長州36万石といえども、万単位の軍隊を出すことは財政的にかなり難しいのです。
紀州藩が敗戦国であり、一歩誤れば朝敵として藩が滅亡する危機にあったからこそできたことでした。禄が20分の1になっても、朝敵だから諦めもつくということです。戦勝国である薩長にはそんなことはできません。特に薩摩は士族の国で、戦士は士族だけに限られると考えていました。
翌明治3(1870)年2月20日、兵部省(後の陸軍省)が、全国の兵制を統一すべしとして、各藩の常備兵規模を1万石につき1個小隊60名に限り、士族・華族以外から兵隊を徴集すべからずと布告します。これは、長州の奇兵隊とまったく思想を異にするもので、薩摩と長州のせめぎ合いの中、薩摩が主導権を握っていったことが...