●廃藩置県は山県邸の「書生論」に始まった
明治4(1871)年、木戸孝允と西郷隆盛が参議に就任して、改革を推進しようとしますが、うまく進展しません。後に「書生論」と呼ばれた「廃藩置県を断行すべし」という青臭い議論は、この時になって持ち上がります。
この経緯は、麹町の兵部少輔・山県有朋の屋敷で、野村靖と鳥尾小弥太という二人の若者が天下の大勢を議論し、「封建を廃し、郡県の治を」と言ったことに始まります。山県は「そうだ。それがいい。木戸と西郷に諮ってくれ」と後を押します。
次には井上馨がこれを周旋し、国家の大事なので「西郷に相談するが良い」と言います。井上の助言を受けて山県が西郷に会いに行きます。西郷は「それはよろしかろうが、木戸の意見はどうなのか」。西郷自身の意見を問うと、「国家のためなら、それはよろしい」と、西郷は即座に同意します。
この時、「それはよろしい」としか西郷は言わなかったといわれています。木戸も、「西郷がよしと言うなら」と同意します。ただ、皆、廃藩は必要だと思っていたけれど、まさかできないだろうとも思っていたわけです。
●薩長高官の4日におよぶ密議と、蚊帳の外に置かれた公家
西郷からゴーサインが出たので、実行に向けて7月9日夕刻、九段にある木戸の屋敷で鹿児島・山口の実力者がそろって会合を持ちます。鹿児島県からは西郷兄弟(隆盛・従道)、大久保利通、大山巖、山口から木戸、井上、山県。この日から4日間、廃藩置県を前提とした政府改革が極秘に検討されました。廃藩を実行するのであれば軍事力の行使もいとわないと言ったのが、西郷らしい話として伝えられています。
密議の内容については、廃藩の発表は、諸藩の知事の状況を待たずに行う。全国に二百数十人の知事がいますから、待つ必要はなく、迅速に一斉に発表する。管轄地にいる知事は、廃藩の発令後、直ちに上京を命ず。状況が遅れた場合、不服な姿勢を見せた者については断固たる処罰を与える。
ここまではいいのですが、公家の三条実美と岩倉具視には、密議の翌日(13日)に報告をしています。岩倉は「意外な大変革で、恭悦と申すまでもなく候得共狼狽もありなん」と言っています。
大久保は、王政復古のクーデターに臨むのと同様の決死の覚悟で、「もし岩倉さんが三条の元に駆け付けようとするのだったら、狐疑することなく必ずご裁断を...