●兵と殿様が対立する鹿児島、奇兵隊解散が課題の山口
「尾大の弊」と政府親兵の創設の項目に入ります。「尾大の弊」は、大きくなりすぎた尻尾が頭を振り回してしまうような事態を指します。版籍奉還後、真正郡県制を目指す政府にとって重大な障害は、鹿児島・山口などの有力県が割拠する姿勢でいることでした。
鹿児島藩(薩摩)では藩主の父である島津久光がなお力を持っていて、改革はけしからんと発言し、戊辰戦争から凱旋して帰ってくる兵士たちとも対立しました。中央政府はまだ力が弱くて手の出しようがなく、非常に大きな障害になります。
明治2(1869)年の藩制改革で干されていた西郷隆盛を、藩主は翌年「参政」という参与のような官職に任用します。西郷は士族の味方ですから、「兵士扶助」を行います。政府の急激な集権策や官員の腐敗には批判的だけれど、兵士には優しいのです。ですから、久光らの守旧派と凱旋兵士の調和を図って兵士の扶助を優先する役を務めました。
薩摩は、もともと1万2000もの軍隊を持っていますから、昔から「自分たちだけでできる」という発想があり、中央政府と反りが合いません。
山口藩(長州)には木戸孝允、伊藤博文、井上馨といった開明派のリーダーがいるわけですが、長州の毛利氏は開明派に同調的で、久光のように頑固な「上」がいないため、仕事はやりやすかった。ただ、高杉晋作らのつくった奇兵隊のように一般庶民を登用することが、非常に重荷になります。
そこで、諸隊を解散して編成替えしようとするのですが、いざ具体化されると除隊兵と脱走兵が大暴動を起こし、これを殲滅するために多大なエネルギーを消耗します。木戸はこの様子を見て、「急進は危険だ。じっくり構えなければいけない」と学んだようです。
●鹿児島・山口の兵力問題と「徴兵規制」
新政府の改革にとって、最大の障害になるのは鹿児島(薩摩)と山口(長州)でした。鹿児島の場合は、近衛兵を出せと言われていたのに、途中で気が変わったのか取り止めたりしたのでそれが「謀叛」ともいわれています。
従来から、木戸は鹿児島・山口の提携には懐疑的でした。鹿児島は強大な士族軍団を持っていて、野望もあるし、反政府の動きもある。一緒に改革しようとしても鹿児島に出し抜かれてしまうのではないかという疑いが拭い切れなかったのです。大久保は「そんなことはない。...