●御用金と太政官札鋳造から廃藩置県・秩禄処分へ
財政基盤の確立と士族解消は、明治政府の重要事項でした。新政府の財政は、ほとんど一文無しといえる劣悪さだったのです。倒幕必要経費は、御用金(300万両)、劣悪な太政官札鋳造(600万両)で賄いました。太政官札は交換できないお金であるため、由利公正は「紙くずで俺は天下を取った」と豪語しています。後に彼は解任されていますが、裏付けのない借り入れで激動期を乗り切ったのは大変な功績です。
政府の税収も、御用金と太政官札の借金で賄われました。当時は暗殺が横行して、横井小楠や大村益次郎が殺され、全国に政情不安が広がりました。政府は精力的に全国から所領召し上げを行いますが、八百数十万石にしか届きません。
悩み抜いた末に全国の収入を中央に集中させる方策が、明治4(1871)年の「廃藩置県」でした。さらに明治9(1876)年には「秩禄処分」が行われます。これは、要するに公務員を全員解雇するというような処置のことで、その報酬を公債で受け取らせるというものでした。
●維新政府の膨大な赤字と高利の外債発行
紙幣の増発によるインフレは、財政基盤の弱い新政府を明治初年からずっと悩ませていました。由利が解任された後も、明治6(1873)年7月に陸奥宗光が起草した地租改正により財政の基礎が固まるまで、維新政府は歳入確保目的で大量の紙幣発行を余儀なくされていたのです。
維新政府の債務は、直接的に維新に関わったものだけではありません。全国政府になると各藩を代表するため、各藩の発行した藩札を引き継いだ結果としての借金もありました。また、幕府の横須賀製鉄所に属する韮山反射炉、水戸藩が設置した石川島造船所、佐賀藩の築造した築地反射炉、薩摩藩がいち早く進めた工場群(集成館事業)など、明治政府の官営工場のもとになったわけですが、一旦は政府が引き取ったため、借金が莫大に膨れ上がったのです。
明治政府の膨大な借金は、国内資金への圧迫から高金利を招くことになります。明治14(1881)年に松方正義が蔵相に就任して財政健全化政策を取りますが、それが効果を現す以前は非常な高金利が続いていたのです。
明治3年には、鉄道を建設するためにイギリスで公債(クーポン債)を発行しますが、年利は9パーセントにも上りました。エジプトやルーマニアの国債7パーセントを上回っています。この後、秩禄処分に必要な資金のために240万ポンド公債を発行した後は、懲りたのか、外債発行はしていません。日本が次に外債を発行するのは、日清戰争に勝利して金本位制を導入し、国際信用も付いた後の明治32(1899)年でした。この時の金利は4パーセントですから、ようやく国際社会の信用を得たのでしょう。金融市場は、このように国家の評価をするものです。
●土地ごとに設定された地価に基づく「地租改正」
二番目に大きいのは「地租改正」です。廃藩置県したのはいいけれども、先に立つものはお金ですから、地租改正をする。それまでの検見法ではなく、陸奥宗光が考案した「土地売買を自由にすれば収穫の高い土地に高値が付く。それを割り出し、全国統一のパーセンテージで払えばいい」とする方式です。これにより、農民でなくても土地の所有者は税を納めるようになり、これまで農民だけに集中していた税が平等化されます。この布告は明治6年7月28日に太政官で行われました。
地租改正によって、地租収入は明治5年度の2,005万円が6年度には倍以上にアップし、租税収入の9割は地租になりました。ようやく日本の財政構造はやや安定してきたのです。明治5年度には、地租以外の歳入のほとんどが不換紙幣発行で賄われていましたが、これは急場しのぎの裏付けのないものですから、改善されていきます。
ただ、地租改正は大変なことで、全国の土地について一筆一筆、地価を確定して地券を発行する必要があるため、8年がかりで明治14年にようやく完成します。
地租改正は農民に対する大増税であるとともに、それまでの米による物納が金納とされたため、政府は安定しますが、米価変動のリスクは農民が一手に引き受けなければならなくなります。そのために多くの暴動が発生します。西南戦争勃発の直前、明治政府はあまりの危険を鑑みて、3パーセントの地租を2.5パーセントに軽減しています。
●武士の既得権を撤廃する「秩禄処分」
この頃の政策の極め付けは明治9年の「秩禄処分」です。秩禄処分は、武士の特権を解体することで、今の時代に例えると、公務員を一旦全員解雇し、退職金は全て国債で支給することとした上で、必要最小限の人員による再編という措置に当たります。
いわば明治維新による士族階級の大リストラです。これを行わないと明治維新は完成しませんが、諸外国からは「よく権力層を一気に切り捨て...