●科挙にならった「学問吟味」の画期性
―― 先般、先生から、松平定信の寛政の改革で行われた最も重要なことが、実は人材登用のシステムをつくったことだとうかがいました。江戸期の藩校にしても私塾にしても、ここから本格的な教育が始まって、佐藤一斎の系譜である佐久間象山なり横井小楠がギリギリ幕末に間に合ったのだというお話を聞かせていただいきました。私は、寛政の改革の非常に重要な要素に人材登用や教育の側面があるというのを知らなかったので、今日はぜひそのあたりのお話を先生にお聞かせいただければと。
中島 ありがとうございます。本当に寛政の改革(1790年ですが)以降、わっと藩校の数が増えているのです。ここで思いきった制度改革をやったわけです。何をしたかというと、それまでは士農工商の身分制度ががっちり固まっていて、武士といっても、いわゆる上級武士の子どもから登用していくというやり方しかなかったわけです。
―― 500石以上の上士から選ぶと。
中島 そうすると、中には当然能力の高い人もいますが、そうではない人もいるわけです。もう200年近くになった徳川(政権)は、人材という点ではなかなかの困難を抱えていた。
―― ずっと世襲で、いい人が続くことはあり得ないですね。
中島 それは難しいと思います。やはりそこに新しいチャンスを入れることが大事です。寛政の改革が何をやったかというと、直接科挙を導入したわけではないのですが、それにやや似た「学問吟味」と当時いわれる制度を取り入れた。
―― 「学問吟味」ですか。
中島 その制度を入れて、例えば下級武士の子、あるいは農工商など他の身分の、能力の高い人たちを採用していくためのルートを開くわけです。
―― 画期的ですね。
中島 画期的です。だから、ある程度学問を身につけたら、今までの身分制に縛られずに自分の能力を発揮することができる。そういうチャンスを、日本の社会に植えつけたわけです。そうすると若い才能は、チャンスだと思って一所懸命勉強するわけです。そのときに藩校や寺子屋などもどんどん充実していきます。
ここで大事だったのは、幕府がただ音頭を取っても、それでは広まらないわけです。それぞれの藩が協力しないといけない。共鳴しないといけない。当然各藩でも、人材登用に関しては同じような問題を抱えていた。そこで、寛政の改革で人材登用のシステムを新...