●寛政の改革が果たした社会的流動性の回復と現代
―― 徳川家康がつくった強固な江戸幕府といえども、やはり代を重ねるごとに(難しくなっていく)。最初の100年では1200万人(の人口)が3000万人ぐらいになったので生産性が上がり、改革も進んで急成長しました。しかし、人材は上士に限られた階層だったので、他からは人が上がっていない。そうすると、みんな勉強しなくなるわけですね。
中島 そうです。世襲では駄目ですね。われわれは今、「社会的流動性」という言葉をよく使いますが、やはり社会的流動性の高い社会のほうが活気があります。
―― それはもう、絶対にそうですね。
中島 確実にそうです。だから、寛政の改革はそれを一押ししたのではないかという気がします。
―― それを松平定信という将軍になるかもしれないような家の人が行おうとしたところに面白さがありますね。
中島 そうですね。よほどの危機感がおありだったと思います。それに当時の仕組みからいってトップダウンでやるしかなかったのでしょう。(つまり)ボトムアップ型ではなかなか功を奏さなかったと思います。もちろん、あちこちでいろいろな農民たちの運動は出てくるわけですが、そういう制度的な、特に教育に関わるものはトップダウン型でないと機能しなかったということでしょうね。
―― 面白いですね。その前段階の田沼意次は賄賂政治、あるいは今でいうと積極財政ですね。新田開発をしたり、いろいろな形で需要をつくってマーケットを設けたが、彼は教育にはまるで触れなかった。その次の松平定信のときに、緊縮による財政再建とともに行われたもう一つの改革である教育改革は、全国諸藩に広がった。これはなんとなく、今の時代によく似ている気がします。
中島 そう思いますね。
―― 今の時代で世襲が続いている自民党というのは、ある種、日本国そのものだと思います。戦後の日本そのもの、日本人そのものだと思うのです。それが「世襲3代」とはいいますが、造り酒屋のような地元の名士になってから数えると、だいたい5、6代目ぐらいですね。
中島 ですから、どうやって社会的流動性を回復するか。それはどの領域にも当てはまることだと思います。もちろん世襲の中にも優れた人がいないわけではありませんし、それはそれで鍛えられている人もいるでしょうけれど、やはり俯瞰して見た場合、社会的流動性を上げるた...