●咸臨丸から遣欧使節団に参加する幕僚時代
明治初期の状況の中、西南戦争までの動きを見事に超越した人物が一人います。それが、皆さんもよく知っておられる福沢諭吉です。
福沢は緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、江戸で英語を学ぶ中、万延元(1860)年の咸臨丸で渡米、帰国した11月に幕府に採用されます。それからちょうど1年たつと、遣欧使節団が組織されるというので、今度はそこに加えられます。
遣欧使節団とは何かというと、安政5(1858)年の条約で幕府が一定期間のうちに神奈川、長崎、函館、新潟、兵庫の5港と江戸、大坂の開市を約束したところまでさかのぼる必要があります。
幕府は、なんとかこれを延期できないかと模索し、この方針を列国に要請したのですが、同意を得られない。しかし、英仏公使から「あなた方が欧州を訪問して直接交渉したらどうか。その資金はわれわれが出しましょう」と随分丁寧な提案があります。ロンドンには彼らの泊まった所が残っていますが、なかなかいいホテルに泊まっています。
この時に乗り込んだ船は、オーディン号というイギリスの最優秀のフリゲート艦です。外輪を2個付けて2000トン、大砲16門、乗員200~300名という大きな船です。さらに、日本の使節のために内部を日本座敷風にする改装工事香港で行っています。なぜかというと、イギリスの方がアメリカより上であることを印象付けたかったからです。
●ヨーロッパ文明に触れ、「富国強兵のもとは人物養育」と知る
遣欧使節団はシンガポールからヨーロッパに渡り、パリからイギリス、ベルリン、ペテルスブルグ、そして東洋を回って帰ってきます。ほぼ11カ月の旅程で、外交的には大した成果は挙げませんでしたが、ヨーロッパ文明を見たことが最大の成果です。
福沢は、さまざまな土地の社会制度について書き留めました。専売局、病院、鉄道、ガス、電信、博覧会、盲唖院、養護院、トンネル、軍隊、徴兵令。福沢は、表立った現象よりも、なぜこれが可能なのか、どういう心映えでできているのかというところに非常に興味を持ちました。結局、イギリスをつぶさに観察して、「当今の急務は富国強兵。富国強兵のもとは人物を養育すること専務」と書きます。これが慶應義塾のもとになるのです。
帰国して最初の仕事は、生麦事件の処理でした。翌文久3(1863)年に緒方洪庵が亡くなりますが、通夜の席に行くと、先輩の塾頭・村田蔵六(後の大村益次郎)がいたので、福沢はこう話しかけたと言います。
「どうだえ。馬関では大変なことをやったじゃないか。何をするのか。(中略)あきれ返った話じゃないか」(『福翁自伝』)。そうすると村田は、「欧米の横暴は許せん。長州は全員が死んでも攘夷だ」と言い放ったので、福沢は、尊敬している村田がこういうことを言うのかとあきれ返ったそうです。
●『西洋事情』の執筆と成立すべき日本への熱情
この頃から、福沢は蘭学を英学に切り替えて本格的な塾の経営に入ります。そして、翌文久4(1864)年に九州・中津の故郷に帰り、後に慶應義塾塾頭になる小幡篤次郎らを連れてきます。
また、この頃から欧州見聞を徹底的に生かした『西洋事情』を執筆するのですが、これがベストセラーになります。読んだ方もいらっしゃると思いますが、一読すると、本当に感心します。地理、政治、軍事、財政が主ですが、歴史にも明るいし、どうしてこんなことまでと思うほどよく記されています。現代の教科書にしても第一級です。よくこんなものを百数十年前に書いたものです。
慶応3(1867)年、二度目のアメリカ旅行をします。幕府が購入していた軍艦受取委員会の随員になって渡米したのです。福沢は貴重な洋書を買い入れるため、お金をかき集めて乗り込んでいます。
当時の洋書というと、緒方洪庵の適塾などでは一冊の原書が中世の聖書のように貴重で、皆が読むのですぐに汚れてしまう。それでも、奪い合いながら読まなければならない。それでは教育にならないので、福沢は同じ本を10冊も20冊も購入し、読みたい学生が一人で二晩か三晩かければ読めるようにしました。近代教育の始めです。
福沢は、第二次長州征伐の失敗で、もう幕府には希望が持てず、生命力がないと感じていました。かといって、薩長の攘夷勢力には到底加担できない。そのため、政治に背を向け、懸命に著作に打ち込みました。幕府にも絶望し、薩長にも期待が持てない中、あるべき日本、成立すべき日本に対する脈々たる熱情が、その行動の根底にありました。
●彰義隊掃討の砲声の中の講義を記念するウェーランド講演会
慶応4(1868)年、福沢は蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念します。この年の5月15日は、上野彰義隊の戦争です。官軍は夜明けから上野の彰義隊掃討作戦を展開。夕方になって彰義隊は逃...
(文久2年、パリの国立自然史博物館にて撮影)