●今川義元が軍師・太原雪斎に竹千代を教育させた意味
―― 徳川家康の人間的な成長といった場合、前回先生がおっしゃった、今川家の軍師役でもあった太原雪斎の指導が非常に大きかったのではないかということでした。
小和田 大きかったですね。
―― 先生の著書によると、ちょうど家康が9歳から12歳ぐらいの時に直接教えを受けたということになりますか。
小和田 そうですね。
―― それはどのような指導だったのでしょうか。
小和田 はっきり分かっているのは、兵法(戦い方)を学んだということが『武辺咄聞書(ぶへんばなしききがき)』という史料に載っています。兵法書、いわゆる中国伝来の「孫子の兵法」などを学んだのでしょう。
というのは、当時の寺、特に禅宗の寺は五山文学でも有名ですので、漢文や漢詩文を読み書きできるような教育がなされていました。中国伝来の兵法書は漢文で書かれていますから、それがスラスラ読めるような形になっていたことが一つあります。
それから、これは史料にはなくて推測なのですが、いわゆる後にいう「帝王学」のような、上に立つ者の務め、すなわちリーダーシップ論のような教育も、結構受けたのではないかと思っています。
―― 太原雪斎という人物は、大河ドラマなどでも結構、重量級の役者さんが務めるケースが多いのですが、どういう人物になるのでしょうか。
小和田 もともと今川の重臣の息子です。現在も清水(区)に庵原(いはら)という地名がありますが、そこの出身です。当時そのぐらいの家では、一人を残して(その他は)寺に入れてしまうという風習があり、雪斎も現在の静岡県富士市にあった善得寺という寺に入れられました。修行中、京都の建仁寺へ行ったりしますが、そこへ今川義元の父・今川氏親から「息子を教育してくれ」と、お呼びがかかります。そうして善得寺に戻ってきまして、当時4歳の今川義元はそこで雪斎の教えを受けることになります。
その後、成長した義元が今川家の家督を継ぐようになると、自分を育ててくれた雪斎を軍師として迎えます。その軍師に竹千代(後の徳川家康)を教育させたわけですから、これは義元としても相当な期待を竹千代に持っていた証拠です。
―― 同じ教育を受けさせるということになるわけですね。
小和田 そうです。自分の先生だった人に教育させるわけですから、義元は竹千代少年に結構、期待をしていたと思います。
●外交僧として活躍した太原雪斎と兵法書の重要性
―― 後年の話になりますが、家康が晩年近くなると、例えば天海や崇伝のように、いろいろなお坊さんがブレーンとしてつくようになります。戦国時代の僧侶が、特に大名について果たした役割はどういうものだったのでしょうか。
小和田 一つは相談役的なことで、武将たちにいろいろな悩みが生じてきたとき、僧侶に相談して悩みを少しでも取り払ってもらうということがあります。
もう一つ、当時の僧侶は、伝達者といいますか、外交においても活躍します。というのも、僧侶はすでに出家していて、俗世間から縁が切れているという考え方があります。これを「無縁の原理」といいますが、それがあるために敵国へ行っても殺されない。普通の人間がふらっと敵国へ行くと殺されてもしょうがないのですが、お坊さんを殺すということは、当時の人の考えにはないものでした。そのため結構、外交僧として活躍するのです。毛利家で活躍したことで有名な安国寺恵瓊などはその典型です。
この時代、甲斐・武田信玄、相模・北条氏康、駿河・今川義元のあいだで結ばれた同盟を「甲相駿三国同盟」と呼びますが、その根回しをしたのが実は雪斎なのです。義元にとって雪斎という人は本当になくてはならない僧侶だったわけで、そういう意味ではもう武将といってもいいでしょう。
今川が三河に領国を広げていく時の雪斎は、鎧の上に黒衣を羽織ったのか、黒衣の上に鎧を着たのか分かりませんが、前回お話しした安城城攻めなどで実際に大将になって織田信広を生け捕りにしているくらいです。そういった僧侶の活躍は大きいですね。
―― 雪斎の出自も、先ほどお聞きしたようにもともとが武家の出ですから、その延長線上というようなところもあるのでしょうね。
小和田 そうですね。武士としてもやっていけた人ですから、一つの身体の中で武士と僧侶の2つの側面を持っていたということはあります。
―― 先ほど、当時の僧侶は漢文が読めるので、中国の兵法書なども読めたというお話がありました。例えば中国の『孫子』にしても、『六韜』や『三略』にしても、情報いわゆるインテリジェンス的なものについて、かなり細かく縷々書いていますね。
小和田 そうですね。単なる戦いの手段ではなく、上に立つ者の務めのようなこと、大将はいかにあるべきか、人間形...