●「徳川中心史観」から変わってきた徳川家康のイメージ
―― 皆さま、こんにちは。
小和田 こんにちは。
―― 本日は小和田哲男先生に「家康の人間成長~その戦略性はいかに培われたのか」というテーマでお話をいただきます。小和田先生、どうぞよろしくお願いいたします。
小和田 よろしくお願いします。
―― 今回取り上げる徳川家康は、いわずもがな、長いことずっと人気がある戦国武将です。大河ドラマでいっても、例えば1983年には山岡荘八さんの小説を原作とした『徳川家康』が滝田栄さんの主役で演じられました。昭和の、特に戦後の「徳川家康」イメージには、山岡荘八さんのつくられたイメージが大きく働いているような気がします。その後、家康像は歴史の中で多少変わってきたりしているのでしょうか。
小和田 そうですね。山岡さん原作の頃はまだ、「徳川中心史観」という言い方をしますが、「家康に間違いはない」というような見方で、小説も描かれていました。しかし、その後少しずつ、やはり家康にも失敗はあったし、間違いも犯したというように、少しずつイメージが変わってきています。
―― なるほど。一番大きく変わったのはどのあたりになりますか。
小和田 昔はどちらかというと、家康のリーダーシップが前面に出て、それでみんながついてきたという感じでした。しかし、最近はむしろ家康は家臣団によって動かされてきた、ないし家臣によって支えられていたというイメージが、かなり定着しています。
―― なるほど。小和田先生は『徳川家康大全』(KKロングセラーズ)というご本で、昔と今の違い、最近分かってきている実像などについて、いろいろとお書きになっているので、本日はそのあたりをお聞きできればと思います。
小和田 分かりました。
●「辛抱」のイメージとは異なる自由奔放な「人質」時代
―― まずお聞きしたいのが、家康というと出てくる「遺訓」についてです。これは本物か偽物かという議論もありますが、「重き荷を負いて、辛抱、辛抱でやっていく」というイメージがあります。『徳川家康大全』を読むと、子どもの頃は人質として織田家に行って…。
小和田 最初、(織田家に)行って。
―― そこから今川のほうに行くことになります。しかし、人質だからといって必ずしも抑圧された厳しい生活をしていたわけではなく、かなり奔放なところもあったようですね。
小和田 そうですね。今までは人質というとどうしても、なんとなく狭い部屋に閉じ込められ、監視の目が厳しい「忍耐」の少年時代という形が、家康のイメージをつくってきました。それが例の「人の一生は重き荷を負うて…」という言葉に象徴されていきます。しかし、私に言わせると、家康の子ども時代はむしろ奔放であり、結構、腕白ともいえる、自由気ままなものでした。 それは、いわゆる「人質」というイメージが実際と違っていたということです。
今川義元は、確かに家康(竹千代少年)を人質には取りましたが、それほどいじめてはいません。むしろ自分の息子、氏真(うじざね)の右腕にしようという意図で、きちんと教育を施しているので、今までの人質のイメージは一新する必要があります。だから、私はいろいろな本の中で今川「人質」時代のことを言うとき、人質のところに必ずカギ括弧を付けて「人質」としています。
これには、理由が3つほどあります。1つ目は、系図の上ですけれども、今川義元の妹の娘と結婚させていること。普通の人質の場合、一門の娘と結婚させるなどということは、まずあり得ません。これが1つ目です。
2つ目に、竹千代は元服して、最初は元信、その後、元康と名前を変えますが、この「元」という字は今川義元の「元」という字です。殿様の1字をもらえるなどということは、普通の人質にはない話ですから、これはやはり将来の重臣待遇といえます。これが2つ目です。
3つ目として、私が特に注目しているところですが、今川義元の軍師だった太原雪斎という和尚に竹千代の教育を任せています。これは普通ではあり得ません。
こういうことから、今川「人質」時代の家康は、結構、自由に、のびのびと今川全盛期の空気を吸って育ったということです。
●石合戦や鷹狩りに見る少年時代の竹千代
小和田 そういった形で、静岡の各地にその頃のエピソードがいくつか残っています。
有名なものとして、例えば安倍川の河原で当時行われていた石合戦の話があります。まだ子どもだった竹千代が、お付きの人たちに「人数が多いほうと少ないほう、どちらが勝つか」と(聞いた)。お付きの人々が「人数の多いほうが有利だろう」と口をそろえる中、家康は「いや、人数が少ないほうが勝つぞ」と言った。少ないほうが結束力があるから勝ちそうだ、と...