●三河一向一揆の試練と教訓
―― 次に、(徳川家康が)独立した直後ぐらいのお話をお聞きしたいと思います。よく知られているように、桶狭間の戦いがあって今川義元が討ち取られてしまいました。その後、岡崎に帰って独立していくということになると思いますが、比較的近い時期に、例えば三河で一向一揆が起こったりします。
独立したと思ったら、いきなり各大名が苦しんでいる一向一揆に見舞われるようなことも含めて、かなり大変な局面だったろうと思います。三河という土地柄の持つ特徴および三河で独立した直後の状況から家康が学んだのは、どういうことになるのでしょうか。
小和田 三河の地理的な状況からいうと、伊勢湾に近いので、伊勢の関係があります。織田信長は伊勢長島の一向一揆に相当苦しめられましたが、あの辺りには豪商をはじめとする商人たちに結構、一向宗の信者が多いのです。
三河には「三河三ヵ寺」と呼ばれる大きな寺があり、それらが一向宗の寺院でした。家康が今川から自立(独立)した直後、永禄6(1563)年に蜂起して三河一向一揆となり、翌年まで続きます。この時期、家康にとっては(苦しかったのは)、単に宗教勢力と戦うだけではなく、一向宗側に反家康(当時は松平ですので、反松平)の一族がついてしまったことです。
―― これは、家臣もついたりしていますよね。
小和田 家臣もついています。ですから、宗教的な側面を持ちながらも、自分に敵対するものの連合体が三河一向一揆だったので、家康としても結構苦しめられました。有名な話ですが、後に自分の腹心になる本多正信も、一向一揆側の指導者として自分に刃向かったわけですし、蜂屋半之丞は、家康の顔を見るとこそこそ逃げ回るのに、家康がいないところでは一向一揆側で奮戦していました。
そういうことで、当時の家康は結構苦しめられましたが、それをなんとか鎮圧したことにより、まずは西三河を自分の領土に確保します。その勢いで東三河まで領土を広げました。一向一揆のきつい洗礼は浴びたものの、家康にとっては一つのいい教訓になったのではないかと思います。
●一向一揆と戦った織田信長と徳川家康、その理由と相違点
小和田 もう一つ、これはよくいわれることですが、一向一揆と正面から戦った武将は意外と少なくて、信長と家康ぐらいです。他の武将は一揆と妥協したり、手を結んだりしています。
なぜ信長と家康が一向一揆と徹底的に戦ったのかというと、どうもそれは信長路線ではないかと思います。信長のスローガンは有名な「天下布武」で、天下布武については、「武力で天下を取ってやろう」と理解する人がいますが、それは間違いで、「天下に武を布(し)く」ということです。当時は武家(武士勢力)、寺家(寺社勢力)、そして公家(朝廷勢力)、この三つが一緒になって、中世という社会をつくっていました。信長は、そこから公家も寺家も排除して、武家による独裁をしたかった。それが「天下布武」のスローガンの本当の意味で、それを理解していたのが家康です。
ですから、家康も信長と同じく一向一揆とは徹底的に戦うことになり、三河一向一揆では家康がなんとか勝利したということになります。
―― 長島(一向一揆)などもそうですが、信長と一向一揆との戦いには、凄惨な皆殺しのようなイメージがあります。一方、家康の場合、先ほど言われたように、例えば敵方に回った本多正信なども許して、後々は自分の非常に優秀なブレーンにしていきました。
小和田 そのあたりが信長と家康の違いですね。信長は、自分に刃向かったものは徹底的に焼き尽くし、殺し尽くすようなところがありますが、家康は、ずるいといえばずるいのですが、ある程度妥協をしながら相手の力を弱めていきます。
例えば、こんな話が伝わっています。三河一向一揆の時、最後に寺院側が降伏してきた。その時の約束として、「寺は元通りにする」と伝える。一向一揆側の三河三ヵ寺からすれば、元通りにするといわれた以上、自分たちの繁栄が従来通り維持できると思っていた。ところが、実際にはその後、家康は寺を壊しています。「元通りにする」というのは、寺がもともとなかった頃に戻すのだということで、これは詭弁ですね。家康にはそういうところがあって、根絶やし主義の信長より、(ある意味)ずるい手は使うのですが、治めていく上では家康のほうが上なのではないかという気がします。
―― なるほど。そのエピソードをお聞きすると、大坂の陣で堀を埋める時、(最終的に)全部埋めてしまったことにもなんとなく通じるところがあります。
小和田 ありますね。
―― それによって、いかに味方の犠牲を減らすかというところもあるのでしょうが、どちらかというと、もうそれで勝ちを取って...