●「哲学=西洋哲学」という偏見
世界哲学というプロジェクトについてご紹介しながら、私たちがどういうふうにこの世界について考えていくべきか、そして世界の哲学を進めていくべきかということについて、私のアイデアをお伝えしているところです。
ここで改めて、哲学といっているものに対して、なぜ世界哲学といわなくてはいけないか、あるいはそういうことに何か意味があるのかを考えます。もちろん「どうせ哲学というのは最初から全てのことを扱うわけだし、人間は哲学をやってきたからいいではないか」と思われるかもしれません。その疑問はその通りです。つまり、「世界」とつけなくてもかまわない。ところが、この21世紀に私たちが改めて哲学をやるときに、一旦世界とつけないと難しいと思っている問題があります。それが今回お話しする「哲学」という概念に関わっています。
哲学といったとき、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。私が専門にしているソクラテス、プラトン、アリストテレスあたりはパッと出てくるかもしれません。その後は多分デカルトやカントやハイデガー、あるいはフーコーやデリダという名前が次々に出てくると思います。よく考えてみると、これらはみな西洋の人ではないでしょうか。「でも、西田幾多郎がいるよね」あるいは「九鬼周造がいるよね」と思われるかもしれません。彼らも、西洋哲学の勉強をした上で(哲学を)始めている人たちです。
そういうことで、実は一番大きな問題は、これまで哲学といわれて学んだり、本やさまざまな場面で議論されてきたりしたことは、よくよく考えてみると非常に狭いのではないか。はっきりいうと、ヨーロッパ、さらにいえば西ヨーロッパと北アメリカで行われてきたさまざまな文化的な活動のことを哲学と呼んできたのではないか。つまり、今まではそれらが西洋哲学のことだと考えられてきたのではないかという問題です。
もし、私たちが哲学と呼んできたものが、実質上西洋哲学だけだとしたら、これは足りない。だから、そこを突破するために世界という語をくっつける。そこが、最初の出発点です。
●西洋哲学しか見ていない私たち
本来哲学というと、世界という語をつけなくても全てを行うはずなのに、実際には非常に狭い部分でしかやってこなかったとすると、哲学の可能性が狭まっていた、もっというと、多様な可能性の多くが排除...