●世界哲学を遂行する上での言語の問題と「リングワ・フランカ」
世界哲学がどういうものか、どういうやり方ができるのかを考えてきました。ここでは、その中で中心的になる問題をまず一つだけ取り上げて、ご紹介したいと思います。
それは言語、言葉の問題です。哲学というものは生き方であり、世界を見るということですが、やはり言葉と切り離すことはできない。なぜならば、私たち人間は言葉を使って生きてきて、その言葉を使って考えていく。だから、ここにはかなり強い結びつきがあります。
哲学が言葉を通じて遂行するものである以上、当然言葉によって異なってくることがあり得ます。今、少し抽象的に「言葉」と言ったので、「そうかな」と思ったかもしれません。具体的には、自然言語のことです。今、私が皆さんに向かってしゃべっているのは21世紀の日本人がしゃべっている日本語であり、日本語にも時代に応じて変化はあったし、もっというと、中国語や英語やアラビア語や古代ギリシア語とは違う。そうすると、この言葉、言語の問題を一体どう捉えるかということが、世界哲学にとっては思いがけず大きな問題になるのではないか。そして、それがむしろ重要なカギになるのではないかと考えています。
哲学と言語というと、皆さん、どう思われるでしょう。現在、例えば世界中で集まって国際学会などを行うとき、全部ではありませんが、多くの場合は英語で議論します。私自身もそうですし、自然科学ではもっとそうです。科学の分野はもう英語のみになります。私たち哲学の分野はフランス語や中国語なども使いますが、基本的にはいくつかのメジャーな言語で行います。
これは実際上仕方ないというか、例えば私が南米のブラジルの方と議論するときには、「仕方ない、英語を使いましょう」となるし、韓国の人と議論するときにも「英語を使いましょう」というのは、実践上の役割もありますが、もう一つ、それが「Lingua Franca(リングワ・フランカ)」と呼ばれる共通語だからということです。
つまり、その分野で研究をしたり、考えたり、ないしは議論したりするためには、「この言語を使いましょう」という約束がどの時代にもある。それなしに、全ての人が自分の言語でしゃべってしまうとコミュニケーションが取れなくなるし、そもそも学問ができなくなる。
そうすると、哲学においてこの「リングワ...