●戦前は国際的で人の往来も多く、切磋琢磨して哲学を学んだ時代
―― 最後になりますが、日清戦争から辛亥革命までの間、清朝が科挙を廃止して、孫文も周恩来もみんな、どんどん日本へ来ました。その中国人のうちの8割方の人がなんらかの形で、頭山満や宮崎滔天、梅屋庄吉、あるいは安川財閥の安川(敬一郎)――屋敷の中に別宅を建てて孫文を4年間住まわせ、毎月500円ずつ小遣いを渡した――というような人たちのサポートを受けました。そこがけっこう消し去られてしまっているように思います。
納富 おっしゃるように本当に、戦前のフェーズを見て、大正や昭和など、どこまでのことかということを見ながらでないと、“軍国”ということで一緒くたにできるわけでもないと思います。
また、本当に忘れてしまっていますが、大正や昭和のはじめは逆に非常に国際的で、人がヨーロッパなどにふっと行って、文化面では画家も小説家もみんな行くような、卓越した時代があったわけです。それこそ「モダン」という単語をたくさん使うようになった時代でした。そういうものは、後から見るとなかなか見えてこないということもあります。
日本、中国、韓国については――韓国は併合問題があるので難しいのですが――中国との関係でいうと、多分日本は日清戦争に勝ったとはいえ、やはり中国に対する、ある種の敬意も含めて、やはり“お互いに”という感じが文化的にもあったと思います。
哲学者についても、(本シリーズ講義内で)日本でさまざまな概念をつくったと申しましたが、中国から日本に留学して哲学を勉強するわけです。東大の(哲学科)桑木厳翼などから学んだり、いろんなところにきたりして、ドイツ哲学を勉強する。その人たちが帰っていって、またカントやそういうものを中国で教えるということがあった。
そこは、日本のほうが(哲学の進展が)少し早いところはありますが、お互い様で行ったり来たりしながら、ある種“よくしよう”という感じでしょうか。日本が中国から搾取しようというのではなく、アジアとして“よくしよう”という、兄弟のような感覚は強かったのではないかと思います。
だから、その時代についてもちゃんと覚えておくべきだし、もっといえばヨーロッパやアメリカとの関係にしても、べつに屈服しているわけでもなく、文化を非常に強く(学ぼうとしている)。
例えば、第一次大戦の直後ぐらいというのは、日本は経済バブルでドイツがどん底なので、日本からドイツへ若い哲学者が大量に行って、フッサールなどと一緒に勉強しています。ひどい話ですが…。(ちなみに、)東大で教えていた伊藤吉之助は、ドイツ語の家庭教師がハイデガーだった。そういうレベルです。
―― なるほど。
納富 つまり、日本は羽振りがよかったので、その時にけっこう(欧米に)送り込んだ。先ほど出た京都学派の人たちもかなり多くが(ヨーロッパに)行ったし、三木清や九鬼周造も、みんな行って、当時の最先端の哲学を向こうでむしろ丁々発止とやってくる、といった時代があります。
西田幾多郎だけは経歴の都合があって海外に行かなかったのですが、他の人たちはほとんどそういう経験を積んできています。その時代があるから、やはりその次にも哲学がある。決して一枚岩ではないのは当然ですが、この(国際的な)フェーズがその次にはどうなったのか、それはどうしてなのか、さらにその遺産がどこに生きているのか、ということをきちんと見ていかないともったいないという気がします。
●単純な評価で思考停止に陥らないために
―― (第3話で)お聞きしたペリクレスの評価と同じですね。
納富 そうですね。哲学は「分ける」のが好きなので、いろいろな観点を持ち、いろいろなところをきちんと見ていかないと。一番いけないのは、大ざっぱに「いい」「悪い」と決めたり、黒白をつけて敵・味方を分けたりすることです。これは思考停止に近いので、やはり側面をきちんと分ける必要もあるし、観点によっても当然、見え方が違います。
多角的に見るようにする。ただし、だからといって全てが同じにはならない。先ほどのペリクレスについては、私の話でも不十分なところについて語りました。にもかかわらず、やはり彼は歴史上傑出した政治家であったし、その時代が優れた時代だったという、その評価は揺るがないと思います。
そこは是々非々というか、日本の戦前ないし戦後の動きについても、「全てがダメだ」とか「日本はひどかった」ではなく、「日本はここまで頑張って、この部分はけっこうよかった。しかし、なぜここはダメだったのか」ということをかなり冷静に分析しないと、せっかくやったことが無駄になってしまうのではないかと思います。
―― なるほど。頭山満に関しては、単に「頭山満=右翼」でおしまいという感じになってい...