●東大哲学科の伝統…明治期に哲学を学んだ慧眼
―― 先生のお部屋(東京大学文学部哲学研究室)を見に行ったときに教えていただいた話では、1877年の東京大学設立の年に、すでに哲学科があったということでした。お話の中では、西周(にし・あまね)はもともと幕命で法律を学ぶためにオランダへ行かされた。そして、その後ろ側にあるものを知るために、ギリシア・ローマの哲学、あるいはキリスト教を学ぶことが大事だと気づき、「(法律と哲学)両方勉強させてくれ」と言ったということでした。これは、すごいことですね。
納富 いやいや、驚くべきですが、日本の伝統や文化は本来そういうものです。つまり、自分が見ているものがどのぐらい深いか、あるいは裏に何があるかが見えてしまう。今の自分はこの辺でやっているけれども、実はここまで(深いところに基礎が)あると(見える)。その感覚が重要で、目の前のものをどうこなすかという話ではない。奥がどこまであるかが見えないと、手前ができないということではないかと思います。
(江戸時代の)学問のレベルも、今の日本からみると儒学や国学は訓詁的に見えますが、そこで徹底的にそういう教育がされていたということだと思います。
―― 哲学科では、最初の頃に岡倉天心がいたり嘉納治五郎がいたり、すごい人たちばかりですね。
納富 そうですね。哲学科には、井上円了や清沢満之、大西祝などのすごい人たちもいました。哲学といっても、哲学だけを勉強していたわけではないところがまた面白い。そのようなお話をさせていただきましたが、やはり幕末から明治に入り、日本が西洋に追いついてがんばろうとなった時に、みんなが哲学を一斉に勉強したのは、本当に慧眼だと思います。
●造語を多数生み出した明治初期の日本
納富 そうした中、造語として新しい単語(哲学用語)をつくるわけです。それらは今、中国人や韓国人から注目されています。井上哲次郎などを中心に『哲学字彙(じい)』という用語集ないし辞書が編纂されましたが(初版1881年)、それを元にして中国や韓国で今も用いる西洋哲学の翻訳語が、全てではないにしろ東アジア中で共有されています。日本にそういう適応力のようなものがあったのは驚きだと思います。
―― 「経済」にしても、「議会」にしても、「演説」にしても、それはすごいクリエイティビティですね。和製漢語みたいなものを300も400もつくっていますし。
納富 われわれは忘れがちですが、もっといっぱいあったのです。いっぱいあったのですが、それが結局、淘汰されて、残っているものが少ないだけで、提案はいっぱいしていたわけです。
―― なるほど、いっぱいつくったのですね。
納富 そうです。その中で、みんなが使ったものは残ってきている。逆に、パッと使ってそのまま流布したわけではありません。ご存じのように「哲学」という単語は西周が作ったものですが、中江兆民は「理学」という単語を当てて、ずっとそう言い続けました。西周(の案が流布したのは)は、(東大で)哲学科までつくってしまったからかもしれませんが、その後の学問の名前は「哲学」になってしまったのです。
いずれにせよ、それはある意味で非常に活発な状況でした。われわれが言いたい新しいこと、あるいはある理念について、どういう漢字で、あるいはどんな日本語を用いてこれから語っていこうかということに対して、みんなで提案する。それを、学者だけではなく、一般の方々まで含めて使っていくわけで、そうした中で、われわれの普通の日常語としてのさまざまな日本語が新しくなってきたということです。そういう意味で、哲学は非常に大きな役割を果たしたと思います。
●世界と堂々と勝負した第一世代から、揺れ動く第二・第三世代へ
納富 夏目漱石も、哲学科とはいいませんが、「哲学会」という組織に在籍して、幹事なり事務局員なりを務めました。哲学とか文学とかといいますが、当時は文学の有名な先生たちがみんな「哲学会」に所属して、一緒に議論していたので、気づかないかもしれないけれども、漱石の小説などで当時のそういう哲学の状況が多分に反映されているのではないかと思います。
―― なるほど。漱石の場合、やはり先生が紹介してくれた「私の個人主義」を書いた中に、非常な苦しみが吐露されています。自分の背負っている過去の日本の歴史と西洋近代文明の間に行ってしまう、と。
納富 そうですね。
―― その中で、(漱石は)英語ができなかったわけではなく、ギリシア語とかラテン語(に通じていなかったことが問題)なのだと。
納富 ただ、漱石は、第二世代か第三世代か、具体的にはそれぐらいだったと思います。先ほど名前を出していただいた岡倉天心などは全く逆で、外国に行ってもなんのてらいもなく、最初から堂々と全部...