●墨売り行商人と自分を対比する宗助の迷い
そこで非常に印象に残るのが、どんな人が修行に来るのですか、というようにお坊さんに聞くわけです。そのお坊さんが、いろんな方がいらっしゃいますよ、と教えてくれるのですけれど、そこで非常に印象的に描かれているのが、「中に筆墨(=磨る墨のこと)を商う男」、この人が鎌倉のお寺には定期的に修行に来るのですよという話を、宗助は聞くのです。
この人はどういう人かというと、墨は小さいので行商ができるわけです。たくさん墨を背負って、「墨、買いませんか」と言って売り歩いていました。20日なり30日なり歩いて売って回り、お金を作るのです。そして、お金を作って全部売り尽くすと、寺に来て坐禅するわけです。
ところが、坐禅していると、そのうちお金もなくなり、食べるものもなくなります。そうすると、また墨を背負って売りに出ていって、それで売り切ってお金が少し貯まると、また寺に帰ってきて坐禅をするわけです。その繰り返しで生きている人がいるのです。
この話を聞いた宗助はどう思うかというと、「宗助は一見こだわりの無さそうなこれらの人の月日と、自分の内面にある今の生活とを比べて、その懸隔(=違い)の甚だしいのに驚ろいた。そんな気楽な身分だから坐禅ができるのか、あるいは坐禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った」と書いているわけです。
この人の場合は、墨の行商人だったわけですけれど、実はこの宗助は、崖の上にあるあのお金持ちの大家の坂井の家で、別の行商人に出会っています。その別の行商人は甲斐の国、つまり山梨県ですが、そこから反物を売りに来ている行商人です。その行商人をお金持ちの大家の家でたまたま見たときは、大変そうだなと思ったのです。
重たい反物をたくさん背負ってきて、しかもこの大家はお金持ちなのに、けっこう買い叩くのです。「もう少し安くしてくれないか」などと言って買い叩いたりしていますから、宗助は大変そうだなと思い、うちも苦しいけれど1個ぐらい買ってあげようか、などと気の毒に思うのです。そういうことから、行商人といえば大変そうな人、うちよりも大変そうな人と思って帰ってきたのです。
その後、お寺に行ってみたら、「こんな方もいらっしゃいます」と言われて、墨の行商人を知るのです。行商人ですから住所がないようなもので、行商しているか、寺...