いま夏目漱石の前期三部作を読む
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なぜ『門』なのか?反知性主義の時代を生き抜くヒント
いま夏目漱石の前期三部作を読む(9)反知性主義の時代を生き抜くために
與那覇潤(評論家)
なぜこの小説は『門』と題されているのか――『門』の終盤で主人公・宗助は寺での禅の修行を体験するが、悟りの門を開くことはできなかった。しかし、そこで墨売りの行商人の生き方に触れ、人生というのは、鉄道のように目的地に行くという直線のイメージでは捉えることはできないと気づくのである。前期三部作を通して、夏目漱石は反知性主義が横行する時代において、知性者が否定に陥らずに生きていくための示唆を与えている。(全9話中第9話)
時間:12分47秒
収録日:2024年12月2日
追加日:2025年4月27日
≪全文≫

●墨売り行商人と自分を対比する宗助の迷い


 そこで非常に印象に残るのが、どんな人が修行に来るのですか、というようにお坊さんに聞くわけです。そのお坊さんが、いろんな方がいらっしゃいますよ、と教えてくれるのですけれど、そこで非常に印象的に描かれているのが、「中に筆墨(=磨る墨のこと)を商う男」、この人が鎌倉のお寺には定期的に修行に来るのですよという話を、宗助は聞くのです。

 この人はどういう人かというと、墨は小さいので行商ができるわけです。たくさん墨を背負って、「墨、買いませんか」と言って売り歩いていました。20日なり30日なり歩いて売って回り、お金を作るのです。そして、お金を作って全部売り尽くすと、寺に来て坐禅するわけです。

 ところが、坐禅していると、そのうちお金もなくなり、食べるものもなくなります。そうすると、また墨を背負って売りに出ていって、それで売り切ってお金が少し貯まると、また寺に帰ってきて坐禅をするわけです。その繰り返しで生きている人がいるのです。

 この話を聞いた宗助はどう思うかというと、「宗助は一見こだわりの無さそうなこれらの人の月日と、自分の内面にある今の生活とを比べて、その懸隔(=違い)の甚だしいのに驚ろいた。そんな気楽な身分だから坐禅ができるのか、あるいは坐禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った」と書いているわけです。

 この人の場合は、墨の行商人だったわけですけれど、実はこの宗助は、崖の上にあるあのお金持ちの大家の坂井の家で、別の行商人に出会っています。その別の行商人は甲斐の国、つまり山梨県ですが、そこから反物を売りに来ている行商人です。その行商人をお金持ちの大家の家でたまたま見たときは、大変そうだなと思ったのです。

 重たい反物をたくさん背負ってきて、しかもこの大家はお金持ちなのに、けっこう買い叩くのです。「もう少し安くしてくれないか」などと言って買い叩いたりしていますから、宗助は大変そうだなと思い、うちも苦しいけれど1個ぐらい買ってあげようか、などと気の毒に思うのです。そういうことから、行商人といえば大変そうな人、うちよりも大変そうな人と思って帰ってきたのです。

 その後、お寺に行ってみたら、「こんな方もいらっしゃいます」と言われて、墨の行商人を知るのです。行商人ですから住所がないようなもので、行商しているか、寺...

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