●1990年代のイギリス留学事情
―― 先生は1991年に東大の哲学で修士を終えられて、親から1000万円借りてケンブリッジの(古典学部)哲学科に留学されました。5年で学位を取られたけれども、すぐには(海外での)職はありませんでした。その話をされると、今の学生はみんな引いてしまうということでした。その時の先生の心意気と、今の学生さんの違いは、何によるのでしょうか。
納富 これは難しい。実は私が行った1990年代のはじめというのは、日本からの留学者がけっこう多かった頃でした。いわゆるバブルの最後の時代ということもあり、企業からも官庁からも留学する方がたくさん来ていました。
だから、私もある種の「どんどん行こう」という雰囲気の中へ加わったのです。個人的にお金の苦労などはしましたが、「行ったほうがいい」「みんな行くんだ」「行けば必ずいいことがある」という空気でした。私が向こうに行っている間に経済が停滞して(日本が)萎縮してしまったので、「今持っているものを守りましょう」という形で全体的なメンタリティが守りに入ってしまったという印象は受けます。
学生に対しても、私などは「チャレンジしてみよう」「知らない世界に飛び込んでみよう」、それが面白いというのですが、今の学生たちは「リスクが…」と言ってくるわけです。それで、「リスクなんて考えたら、何もできないじゃないか」「むしろリスクがあるから行くのだ」というように思うのですが…。日本の社会が、この20~30年ほど、そういう発想ですごしてきたわけです。それは悲しいことで、少し改めないと次のステップが踏めないのでないか、と親の世代も自分も全体的に、(あるいは)一般的には思っています。
私の時代と比べると今は恵まれていて、例えば奨学金なども今のほうがはるかに出ている状況なので、海外に行こうと思えばサポートもある。多分客観的な状況からいえば、若い人たちにチャンスが開かれている。私の時は、学生などに本当に驚かれますが、アプリケーション(申し込み)は、もちろん手紙でした。
例えば、「願書を送ってください」と手紙をケンブリッジに出して、(返事が)戻ってくるのは2週間ぐらい後です。最悪の場合、ファックスもなかったとはいわないのですが、海外にファックスを送るなどはあまり考えていないので、全てのやり取りは手紙で、2~3週間もかかるようなところから始まります。もちろんEメールも何もない時代で、資料も自分で取り寄せるところから始めるわけです。しかも、タイプライターなどは使っていましたが、ワープロも出たばかりで、基本的に手書きです。そのように、全て苦労してやるということです。
だからハードルも高かったし、情報もなかった。本当に情報のない中、小さな情報を集めながらやったというところです。大変だったけれども、それが訓練にもなったということで、時代的には今と横並びには論じられないかなという気はします。
●ロビンソンカレッジを選んだ理由
―― 先生の場合は、行かれて5年間ということで、すでに相当ギリシア語ができたはずですが、カレッジ生活は大変だったでしょう。
納富 ご紹介すると、ご存知の方が多いと思いますが、イギリスのケンブリッジやオックスフォードなどは、「大学」といいながら、実は連合体なのです。一つ一つがカレッジで、30ぐらいカレッジがある。そのカレッジ一つひとつにもともと由来があって、財産も建物もあるという形です。
私が所属していたのはロビンソンカレッジという一番新しいカレッジで、ニューマーケットのロビンソンという馬主さんが、戦後にお金を出してつくったものです。そこは、きれいなのは一番きれいですが、イギリス人に言わせると要するに「伝統がないものは意味がない」ということで、誰もそんなところを選ばない(笑)。トリニティとかセント・ジョンズとか、素晴らしいカレッジはいっぱいありますから。
大学院に入るときには、自分がどのカレッジを志望するかということを聞かれます。私はケンブリッジにどんなカレッジがあるか知らないで、ただ勉強したいだけで行ったので、もう本当に無知極まる状態でした。手紙を通じて私の指導教員になってくださるとお約束いただいたマイルズ・バーニェットという先生が「自分はロビンソンカレッジに属しているから、もし君が(選択に)困るようなら、うちのカレッジに来てもいいよ」と書いていたので、(志望するカレッジの)1位に「ロビンソン」と書きました。
―― なるほど。
他の人に聞いたら、「そんなやつはいないだろう」と(笑)。普通は、もっと伝統的なカレッジから書いていく。そういうところはなかなか入れてくれないので、二番手、三番手になる。一番最初にそんなカレッジを書くやつはいない、と。でも私は、自分の先生がそこのフェロー...