●観劇への熱意は、江戸がローマに圧勝
―― 少し話が変わりますが、日本の場合、いわゆる庶民の楽しみなり文化ということになると、歌舞伎のような演劇物や落語がありました。講談は少し後になるかと思いますが、いろいろ種類もありました。ローマでは悲劇はあまり好まれず、喜劇が好まれたというお話がありましたが、ローマの舞台文化は、どういう形だったのでしょうか。
本村 ローマの例でいくと、具体的に残っているポンペイが参考になります。ポンペイには大劇場と小劇場があって、大劇場が5000人、小劇場が2000人ぐらい収容できる規模でした。
大劇場では、ローマのプラウトゥスなどの書いた喜劇が中心に演じられました。もちろん題材はギリシア人から借りてきていますが、ラテン語で上演したわけです。
ポンペイに残っているたくさんの落書きを見ても、あまり演劇に熱中していた様子はうかがえません。剣闘士興行については、「誰々を応援するぞ」というようなものがたくさん残っています。そういう状況からみると、全体的にギリシア人ほど観劇には打ち込まず、熱が冷めていた様子です。それ以上に面白い戦車競走や剣闘士興行があったがために、そちらに注目が向かったのではないかと思います。
●ファッションも流行も引っ張った江戸歌舞伎の同時代性
本村 日本の歌舞伎の場合、現在でこそちょっと高尚で知的な劇だと想像されがちだけれども、それは最近のことですね。明治以降、徐々に変わってきたのでしょうけれど、江戸時代の歌舞伎というのは結局(当時の)「現代劇」なわけですよね。
だから、目の前で起こっている事件を再現したり、何百年前の事件であっても、まさに現代劇としてやってしまう。それが受けた、というかファッションに影響しました。当時の世間では非常に目立つ新しいファッションの提案にもなったし、それを真似して町人たちがそういう服装をしてみるというようなことがあった。
だけど、われわれの知っている歌舞伎というのは、もうそんな雰囲気は残っていないではないですか。
―― 伝統芸能になっていますね。
本村 伝統芸能ですよね。その上、言っている台詞が分からないようなものです。だから、江戸時代の歌舞伎については、今の歌舞伎から連想するのはあまりよくないのではないかと思います。
そのぐらい歌舞伎役者の地位が高かったときの「人気度」というのは全然違うのですね。ブロマイドが出るような感じですが、剣闘士などもやはりそういうものだったのですよ。
例えば、八代目市川團十郎などは「いい男」の典型みたいに言われていました。だから彼が32歳で自殺してしまうと、男も女も嘆き悲しんだと言われています。
―― そうですね。亡くなった後にもだいぶ浮世絵が刷られたということも聞いています。
本村 そう。だから、そのくらい現代劇である。つまり、ファッションや当時の流行を引っ張っていくぐらいの力を持っていた。だから、今の歌舞伎からはあまり連想しないほうがいいのではないかと思います。
●ローマの風刺詩は江戸の落語や川柳か
―― 逆に、あまりにも庶民への影響力が強すぎたりしたため、幕府の改革ではだいたいご禁制や粛清のような方向にいきますね。「あまりけばけばしいことをするな」とか規制の対象になってしまうのが歌舞伎の歴史であり、何回もそこをくぐり抜けて力強くやっていくというのが歌舞伎の歴史になってきたのだと思います。
そのあたりは、ローマの劇文化とはちょっとまた異なるようなところなのでしょうか。ただ、喜劇であれば現代風刺のような比較的風刺モノも多いのでしょうか。
本村 小劇場もあって、そこでは劇よりもむしろ朗読会が行われました。
―― 朗読会ですか。
本村 そうです。劇の中でいろいろなものを風刺することももちろんありますが、だいたいは朗読会の中で風刺詩などを読んだりして、みんなが楽しみました。その上、落語や講談同様、読み方が一人一人違う。そういう語り口の違いを楽しんだわけです。
劇のほうでは、ときに神々が登場する場面があります。そこで、本来は空中を飛ばなければいけないのに、ひもが切れて下に落ちる。これには、わざとそういうことをして神々をからかうという意味合いもあったらしいのです。ただ、これは現代の風潮を劇の中に取り入れているというより、その段階ですでに伝統芸能になっていってしまっていますね。
―― ああ。ローマでもそういうことになっていたのですか。
本村 そう。伝統芸能だから、ローマの劇の中には新しいものを取り込む力はあまりなかったのではないかと思います。
―― なるほど。ギリシア悲劇に代表されるギリシアの演劇も、もともとは宗教行事などと密接に関わっていて、年1回から数回上演されるということでした。
本村 あ...