●戦国時代とはどのような時代だったのか
駿河台大学の黒田基樹です。今日は「百姓からみた戦国大名」というタイトルで、当時戦国大名から支配を受けていた村や百姓の視点に立つと、戦国大名はどのような存在であったのかということについて、お話しします。
まず、そもそも戦国という時代はどのような時代だったのでしょうか。ここに資料があります。これは、本土寺過去帳と呼ばれるものから作ったグラフです。本土寺というのは、当時の関東地方にあったお寺です。過去帳というのは基本的には檀家の供養をするための名簿です。
この本土寺過去帳は、15世紀から16世紀にかけての記載が残っている、非常に珍しい資料です。その中で、何年にどれほど人が死んだのかについて年次ごとに集計したものが、この図1です。
これを見ると分かるのは、年によって死者数に違いがあるということです。特に前後の年と比べて著しく死者数が多い部分について、丸を付けてあります。
最初に大きく出てくるのが正長元(1428)年です。この年は、「正長の土一揆」といって、日本で初めて土一揆という民衆による蜂起が起きました。実は当時の記録を見ると、この年には大飢饉が起きていたということが分かっています。
それから次に大きく死者数が高くなっているのが、文明4(1472)年あたりです。ここでも前後の年と比べても非常に多くの死者が出ています。この年も当時の記録で大飢饉が起きていたということが分かっています。
さらにもう一つ挙げると、永正2(1505)年です。これも当時の記録によると、大飢饉があったと言うことが分かっています。そのことから、年次ごとの死者の数は当時の飢饉と呼ばれる状況に非常に左右されていることが分かります。
次に、図2を見ていただきたいと思います。これは今取り上げた本土寺過去帳から、15世紀と16世紀における死者について、月別に集計したグラフです。右側のものが1月ごとに集計したもの。左側のものは2月を1つにまとめてグラフ化したものです。より特徴が分かるよう、こうした作為が加えられています。
これは旧暦なので、大体ひと月からひと月半プラスすると、現在の季節感に合います。このグラフを見ると、1年の前半までが平均を上回っており、1年の後半である7月(今でいうと8月)の終わりぐらいから、死者は平均を下回るという状況が分かります。さらにこれを、ふた月を1つに圧縮したグラフにすると、N型になっていることが分かります。
●死亡の季節性と食糧生産サイクル
このように、15世紀から16世紀にかけてのいわゆる戦国時代においては、死亡の季節性が明確に存在していました。しかし、1年の前半、とりわけ6月までに死亡数が高いということは何を意味しているのでしょうか。これは、食料生産のサイクルに対応しています。
作物が採れない時期のことを「端境期」といいます。端境期になると死者数が増えるのですが、これは食料を獲得することが困難なことで、病気などになり死者が増えていたということを意味します。グラフ上の変化はこうした状況を示しているのです。
戦国時代においては、こうした状況が一般的でした。これを後の時代と比べてみるとどうなるでしょうか。図3を用意しました。
図3の右側の(1)を見てください。これは回向院過去帳という江戸にあるお寺の過去帳なのですが、19世紀前半の資料を集計しています。先ほどと同様にふた月を1つに圧縮したグラフで示しているのですが、これを見ると、IVのところ、すなわち7月から8月の部分において一番死者数が高いことが分かります。その後、死者数が少なくなっていき、一番少ないのがII、つまり3月から4月です。これから明らかに、15~16世紀の時代から死亡の季節性に変化があったと考えることができます。
この図3の(1)は、19世紀の前半を取り上げているのですが、そのうちの1831年から1840年までについては抜いてあります。これを別に取り出してグラフ化したものが、左側の図3の(2)です。ふた月を1つにまとめて圧縮したグラフにすると、このようなN形のグラフになっています。
図3の(1)は、この10年以外の部分が扱われており、W形の形になっているのに対し、(2)の31年から40年の10年間はN形のグラフになっています。つまり、同じ時代であったとしても、時期によって死亡の季節性が異なる状況が存在していたということが分かるのです。これは、図2の本土寺過去帳に見られたグラフの傾向と全く同様です。
●大飢饉が常態化していた
それでは、この1830年代には何があったのでしょうか。ちょうどこの時期に当たるのは、天保の大飢饉です。天保の大飢饉とは、江戸時代における三大飢饉の一つです。つまり...