●共同負担による公共事業の萌芽
戦国大名と村との関係の変化についてもう一つ取り上げたいのが、共同負担による公共事業の萌芽です。1573年以降の天正年間には、それまで戦争負担のために各村に賦課をしていた大普請役が、広域的な治水事業に転用されていきました。大普請役は、軍事施設である城郭の維持修築のために充てられる労働力負担だったのですが、それが公共事業に転用されていったのです。
それまで、公共事業は受益者負担でした。基本的には利用し、それによって便宜を受ける人がお金を払って人を雇い、工事を行っていました。しかし、この時期になると、そうした公共事業に、戦争負担が転用されていったのです。
大河川の治水事業は、その流域の村々にとって受益があるものです。しかし、その負担は流域を問わず、領国の村全ての共同負担になりました。要するに、その流域に関係ない村の労働力が投入されるようになったのです。これが意味するのは、領国が村にとって1つの政治共同体の機能を果たすようになったということです。治水事業は村々の存立にとって重要な工事であり、それまでは受益者である村々の負担によって行われていました。しかし、それに対し、戦争費用である税金が投入されることが、この戦国時代から一般的になっていきました。
●村が帰属する政治共同体として大名領国が確立していった
江戸時代の近世大名は戦争をしません。そのため、近世大名も普請役を各村から徴発していました。本拠の城郭普請は行われていましたが、それ以外の部分は基本的には治水事業に充てられるようになっていきます。要するに、本来は戦争費用のために徴発されていた租税が、基本的には村の存立のための公共事業に適用されていき、それが江戸時代には一般化していったのです。これも、戦国時代から始まりました。先ほど述べた通り、戦国大名が村の成り立ちのために対応していく中で、つくり出されたものです。
村の存立のための必要な部分が、領国の村々の共同負担によって実現されていくことで、領国そのものが村にとっての一つの政治共同体としての機能を果たすようになりました。要するに、村が帰属すべき政治共同体として、大名領国を認識したのです。そのことを裏付ける現象が、公共事業の共同負担であるといえます。
●戦国社会の克服への課題は村同士の戦争の抑止
最後に、こうした戦国社会がどのような過程で克服されていったのかについてお話しします。戦国時代には慢性的飢饉がありました。そして、政治権力同士の戦争がありました。その政治権力同士の戦争の根底には、生産資源をめぐる村同士の戦争がありました。問題は、これらがどのように克服されていったのかということです。
まず、羽柴秀吉、すなわち豊臣政権に服属することで、大名同士の戦争が日本列島からなくなります。そうすると、列島に残されるのは村同士の戦争であるため、羽柴政権の課題は、そうした村同士の戦争をどう抑止していくかということでした。これは、以後の徳川政権、つまり江戸幕府まで引き続く課題として持ち越されていきました。徳川政権も3代将軍の徳川家光の段階まで、事あるごとに村々に対して武力を行使せずに政治権力に訴訟するよう呼び掛け続けていました。
●大名の戦争を停止する政策
まずは戦争の停止に関して、です。羽柴政権による列島統一は、結果論でした。日本列島を統一した翌年から、当時「大陸出兵」と呼ばれていた、いわゆる朝鮮侵略が行われますが、大名権力は依然として戦争を続けていたのです。
それが、関ヶ原合戦、大坂の陣(大坂合戦)まで続きました。大坂合戦の後に徳川政権は「元和偃武」というスローガンを掲げて、大名の戦争を停止する政策をとりました。そうすると大名は、戦争を前提としない財政構造への転換を進めていったのです。
ちなみにその当時、対外戦争の軍事的な緊張はずっと続いていたのですが、結果として、対外戦争が継続されることはなく、国内的にも対外的にも武力行使をしない環境がつくり出されていきました。
●17世紀の構造改革
そのような中で17世紀に入り、江戸幕府や諸国の大名が同時に構造改革を進めていきました。寛永時代に入ってから、島原の乱と寛永大飢饉が生じたのですが、それを契機として、江戸幕府と大名たちは構造改革を展開しました。これが「前期幕藩政改革」と呼ばれているものです。これは飢饉対策をきっかけとして、村の成り立ちのためのさまざまな対策が制度化されていった契機です。いずれも飢饉対策として展開していったのですが、ここで江戸時代を特徴付けるような制度の構築が行われるようになりました。
ただし、現在これが具体的にどのような内容のものだったのかということは、まだ十分に解明されていません。例えば、私が...