●一律の制度形成というさらなる課題
次なる課題は、領国内で一律の制度をつくり、どう適用させるかということです。
戦国大名の領国は、例えば北条家の領国の場合、最終段階では伊豆、相模、武蔵、上野、下野、下総、上総の7カ国にわたるほど広大な領国になっていました。その中で、租税徴収の仕組みは統一されていきました。これも、それまでの室町時代ではあり得ないことです。
それまでは、各地域において支配契約が存在し、租税の納入契約がそれぞれによって結ばれていました。例えば、升の大きさや度量衡なども、場合によっては全て異なっていることが普通でした。それで困らなかったのです。それは、それぞれの荘園について、「年貢は特定の升で何合、何升」といった形で決められる契約だったからです。
ところが、戦国大名は領国の各村から同じように、大普請や陣夫役を徴収する必要があり、その基準を一律にする必要が生じました。しかし、それもある段階の中でようやくつくり出されたものです。北条家の場合、そのきっかけになったのが、戦国時代が始まってから100年ほどたった天文19(1550)年4月の政治改革です。これにより、一律の基準がつくられました。
●百姓が逃げ出し、村が成り立たない状態に
この時、北条家の領国は、「国中諸郡退転」と呼ばれる状態でした。国中諸郡とは、領国全域という意味です。退転とは、村々から百姓が逃げ出してしまい、村が百姓不足になっている状態です。村の百姓不足は、作付面積の縮小をもたらします。作付面積が縮小するということは収穫量が減るので、それはそのまま、大名やその家来たちが徴収する年貢が少なくなるということを意味します。「国中諸郡退転」が領国全域で起こっているということは、極めて深刻な事態です。
どうしてこのような状態になったのか、定かではいないのですが、前年に東国一帯で大地震が発生していますので、おそらくその地震災害が要因だろうと考えられています。
その国中諸郡退転という危機的状況の中で、この時の北条家当主である3代目の北条氏康は、百姓を帰村させるための対策を取りました。多くの村々で、百姓がどこかに逃げ出してしまっていたのですが、これを元に戻すという対策を取ったのです。