●戦国時代とは何か
東京都市大学の丸島と申します。普段は戦国大名、主に甲斐の武田氏を中心に研究しています。今回は、戦国大名同士の外交と、その特徴をについてお話しします。
まず前段として、戦国時代、および戦国大名とはどのような存在かを簡単に説明させてください。戦国時代という時代名称は、少し変わっています。他の時代とは違う時代名のつけ方がなされているからです。
奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸は、主たる政権の所在地を名称に採用した時代区分です。ところが、戦国時代は違います。「戦国」という言葉は、永正5(1508)年に左大臣近衛尚通が「現在のありさまは、まるで戦国時代のようだ」と日記に書いている他、武田信玄が制定した分国法「甲州法度之次第」にも、「天下戦国の上は」という条文で用いられました。
前者は中国古代の春秋戦国時代になぞらえた表現ですが、武田信玄が書いた後者は、明確に「現在は戦いの世、乱世である」と言っています。そのため、この言葉をあえて時代呼称、あるいは公称として採用している事実からすると、戦国時代は「主たる政権の所在地」が不明確であるといえます。研究者の間でも、この点で合意を見ているといってよいでしょう。
●戦国大名を1つの国家と捉えてみる
それでは、「主たる政権の所在」が不明確な戦国時代とはどういう時代なのでしょうか。私は、日本列島が、室町幕府という中央政権の存在を前提にしつつも、戦国大名という小国家群に一時的に分裂した時代と捉えています。こうした戦国大名の小国家を、近年「地域国家」と呼ぶ研究者もいます。一定範囲の地域を面的に領国化した国家という意味を込めた命名です。
この戦国大名を「地域国家」と考える理由はいくつかありますが、ここでは3つの点に着目したいと思います。
第一は、戦国大名が領国内における法律制定の最高主権者であるという点です。室町幕府をはじめとする従来の権力が定めた法律や公認した特権をどう扱うかは、戦国大名のさじ加減ひとつで決まるものでした。これは、現在の静岡県東部にあたる駿河の戦国大名であった今川義元が、分国法「仮名(かな)目録追加」において「ただいまはおしなべて、自分の力量をもって国の法度を申し付け、静謐することなれば」と高らかに謳っていることに象徴されます。このなかで今川義元は、「現在は、室町幕府将軍が全国に号令をかけていた時代とは違うのだ。戦国大名自身が自分の領国に法律を行き渡らせ、国を安定させている、それが現実である。だから従来の特権を無限定に認めることはしないぞ」と言っているのです。
第二に、戦国大名が自分自身の領国と家臣をあわせて「国家」と自称した点が注目されます。国家という言葉は、もともと日本語として使われており、古くから漠然と日本国を指して使われてきました。しかし、戦国時代には、戦国大名が自分の領国と家臣団を指して「国家」と呼ぶことがしばしばみられました。つまり、大名領国こそ国家だというのです。
戦国大名の特徴として、直接領国内の村落や名主宛に、直接命令を伝達するようになった点が挙げられます。つまり戦国大名は、村落と直接向き合うことを選んだ権力であると言えるでしょう。言い換えると、村から年貢を徴収する際には、それは大名が保護しているからだという理屈が成立しているということです。
しかし、この自己主張は、最終的には大名が滅亡の危機を感じた際に一気に逆転します。「御国の大事」のため、「御国に住む者」の義務と主張して、百姓を戦争に緊急軍事動員するという事態にまで行き着くからです。領民までも大名権力の構成員に包み込みつつあった権力、それをもって国家と呼ぶことができるのではないかと思います。
第三に注目されるのが、キリスト教宣教師の発言です。彼らは戦国大名についてポルトガル国王と同じ名称、「rei/rey」という呼称を使っていました。これは日本語に訳すと「国王」です。これは第三者による客観的評価とみなすことができるのではないでしょうか。もちろん、宣教師の報告書というものは、自分たちの布教成果がいかに大きいものであったかを誇張してアピールする意図があったと考えることはできます。しかし、宣教師たちは日本の戦国大名のことを国王と呼びつつ、その領国は狭く、ヨーロッパの諸国とは比較できないほど小さいとも明言しています。その上で宣教師は、戦国大名を「国王」と呼ぶ理由について、領国における支配権と命令権を有する絶対君主であるためとしています。したがって、これは客観的評価といってよいでしょう。
以上をまとめると、戦国大名を国家であると考えられる理由の1つめは実質的側面、2つめは大名自身の自己主張、3つめは第三者による客観的評価です。こうした点を総合的に考えて、私は...