●同盟の維持の成立過程
今回は、同盟の成立過程を掘り下げて再検討したいと思います。戦国大名同士の同盟には、いくつかの協議事項があります。大まかにいうと、軍事協力の合意、婚姻関係の構築、そして国境の確定です。
●神々に誓約し、起請文を交換する
これらの協議事項は、前に触れた「起請文」という神々に誓約する形式の文書を交換することで成立します。日本にいる沢山の神々の名前を並べ、ここで取り決めた約束を破ることはしない、もし破ったら、神罰を受ける、ということを記した文書です。
起請文というのは特殊な文書で、熊野那智大社をはじめとする神社が発行する「牛玉宝印」という護符、つまり御守りの裏側に書くことが、戦国時代に一般化します。
この起請文には、血判を据えることもあります。しかし、よく誤解されるのですが、指に傷をつけて拇印を捺すものではありません。前近代の血判というのは、実際には針で指に穴を空け、花押というサインの上に血をしたたらせます。そのため、残念ながら血判から戦国大名の指紋が分かるということはありません。
●外交文書と同様に、文案を詰めていく
興味深いことに、起請文は大名が一方的に文面を決めるのではありません。相互に下書きを送付し合って、文案を詰めていきながら、最終的に合意した事項が起請文に記されます。つまり起請文とは、高度な外交交渉の成果なのです。また、起請文の最後に記す神々には、双方が信仰する神の名前が付け加えられます。これにより、誓約内容の確実性を高めたのです。
●何度も交換することで同盟継続を確認
もう1つよく誤解されることですが、起請文は和睦・同盟の成立時にのみ交換されるわけではありません。というのも、戦国時代の和睦・同盟には、有効期間というものがありません。つまり、いつまで同盟を結ぶ、ということを定めるわけではないのです。だからといってずっと同盟を結ぶことにはなりません。むしろ実態は逆で、情勢の変化によって、容易に同盟は破棄される危険性を持ちます。そこで各戦国大名は、頻繁に起請文を交換し合い、同盟関係が現在も維持されていることを確認し合いました。特に重要なのは大名の代替わりで、ここでは必ず起請文を交換し直して、同盟継続を確認することが不可欠です。
同盟にはしばしば娘の輿入れや、養子縁組といった婚姻関係の構築が伴いますが、これも決定的な拘束力を持つものではありません。そして、戦争における援軍の派遣は、同盟関係のアピールとしては最高のものですが、これまた同盟の永続性を保証するわけではなく、現時点での同盟関係を確認するにすぎません。このため、戦国大名は同盟関係の維持に神経をとがらせました。大名は頻繁に連絡を取り合い、何か協議事項、あるいは不安事項が生じるたびに起請文を交換し合うことで、同盟の安定を心がけたのでした。
●キリシタン大名はキリスト教の神に誓約した
なお、切支丹大名の起請文は特殊です。宣教師は一般に使われていた「牛玉宝印」という護符を悪魔の札と呼んでいましたので、基本的に使いません。また、誓約する神も日本の神ではありません。肥前国西部(長崎県)の大村純忠が肥前東部(佐賀県)の龍造寺隆信に降伏した時の起請文は、「神の恩寵」に誓う、つまりキリスト教の神に誓うという形式を取っています。同じ長崎県南部の有馬晴信は龍造寺隆信に圧迫されると、薩摩の島津義久に服属を申し出て援軍を求めます。その時、自分の立場を保証する起請文を島津に書いて欲しいと願い出るのですが、島津側は協議の結果、有馬は「南蛮宗」であるとして起請文の形式を取ることを拒絶しました。要するに、キリスト教の神などに誓約されても、信用できないというわけです。
●国分けという国境の確定
そして、同盟を結ぶ上で最も困難な交渉が、国境の確定、つまり領土協定でした。これを当時の史料用語で、「国分(くにわけ)」と呼んでいます。最初に説明した今川義元と北条氏康の和睦でいえば、氏康が占領していた駿河東部を返還し、国境線を駿河と相模・伊豆の間で引き直したことが国分にあたります。
北条氏が長年の宿敵であった、越後(現在の新潟県)の上杉謙信と同盟を結んだ際には、これが最大の懸案となりました。永禄11(1568)年12月に始まった交渉です。この時、上杉謙信は、永禄4(1561)年に北条氏の本拠地小田原城を包囲し、勢力が最大限に拡大した時点に遡って国境を確定するよう求めました。具体的には上野一国に加え、武蔵北部も割譲せよ、というものです。これに対し、氏康は、謙信が家督を継いだ山内上杉氏の本国である上野一国の割譲はすぐに受け入れました。問題となったのは武...