●同盟の破棄:手切之一札
最後に、同盟破棄の作法についてお話したいと思います。事例としては、上杉謙信と北条氏康の同盟に話を戻します。この同盟は、謙信が同盟条件として約束した武田領攻撃をまったく行わなかったことで、最終的に決裂しました。これまでに何度か言いましたように、上杉・武田両大名とも、川中島合戦終結後は、直接対決を避けようとし、和睦交渉を繰り返していました。
いずれにせよ、上杉・北条同盟はわずか3年で終わってしまいました。その際、北条・上杉両国は「手切之一札」という文書を取り交わしたことが分かっています。「手切」とは同盟破棄を意味するので、「手切之一札」は、同盟破棄の通告書を意味します。戦国大名の戦争というと、極めて暴力的で野蛮なイメージがありますが、同盟を破棄し、戦争を再開する際には、「手切之一札」という文書を送付し合うという暗黙の了解事項があったのです。現在でいえば、宣戦布告状ということになるでしょうか。
なぜ、このような手順を当時、踏んでいたのでしょうか。これを考えるヒントになるのが、「手切之一札」の写しが、関係者に配られたという事実です。そして「手切之一札」を読むと、自分がなぜ同盟を破棄し、かつての同盟国と戦争を行うのか、自分は同盟を守るために必死にやってきたのに相手がいかにひどいことを行ったため、止むを得ず同盟破棄せざるを得なくなったのだということが、書き連ねてありました。つまり「手切之一札」は、同盟を破棄する相手大名に送ることが本当の目的ではありません。関係する大名や家臣に配付することで、自分が同盟破棄を「せざるを得なかった」として、その正当性をアピールし、味方を増やすことが目的だったのです。
戦国大名という存在は、われわれが考えている以上に外聞を気にする存在であった、と考えられます。戦国大名というと、天下統一を目指す「国盗り合戦」のイメージがありますが、これは事実とはかけ離れています。まず、日本全国を統一しようなどと考えている大名は、基本的に存在しません。織田信長も当初、主な目的は室町幕府の再興でしたが、足利義昭と戦争になってしまったので、止むを得ず追放したという経緯があります。現在は信長が本当に全国統一を目指していたのかということが研究者の間で議論になっているほどです。たしかに領国拡大のための戦争もあったのは事実ですが、これも全てではありません。むしろ話は逆かもしれず、「領土拡大の野心をもって攻め込んだ」というのは、敵国の行動を非難するときに用いる言葉でした。
では実際の戦争はどのように始まったのでしょうか。1つの要因としてあったのは、国境の小競り合いの拡大でした。したがって戦国大名の外交は、この小競り合いを封じることに重きが置かれていました。「国分」という国境の確定が最大の難問であった背景には、こういう事情もあったということです。
●国衆の両属
そう考えた際に問題となるのが、国境地帯に多く存在する国衆領でした。第1話で、戦国大名領国には、国衆領という自治領が存在すると説明しました。戦国大名が領国を拡大する際、敵対大名の軍隊を壊滅させるということはまずありません。現実には、敵対大名に従属する国衆に軍事的圧迫をしかけて降伏に追い込みながら、領国を拡大していく場合が多かったのです。
そもそも、国衆が戦国大名に従っているのは、その軍事的保護を得るためです。したがって、敵国の攻撃を受けた際、大名からの軍事支援が到底見込めないと考えれば降伏してしまいます。保護を受けるという約束を果たしてもらえないためです。そうすると、他の国衆も雪崩を打つように寝返る場合があります。「この大名は頼りにならない。このままでは自分たちも危ない」と考えるのです。つまり、戦国大名の戦争は、国衆を降伏させ合うという形で進むことが多く、一種のオセロゲームのような展開を見せる場合が少なからずありました。
例えば、上杉謙信が永禄3(1560)年から4年に北条領に侵攻した時の動きなどは典型で、北条氏の城を攻略したというよりは、北条方の国衆が次々と謙信に服属していきました。
大名ごとに地図を作ると、(上の資料のように)上杉領が急激に拡大しているように見えます。
しかし、単に北条側の国衆が寝返り、その結果、上杉領が拡大しているように見えるというのが実態でした(上の資料参照)。逆に謙信が越後に帰国すると、北条・武田が反撃します。上杉の援護はすぐには来られないので、多くの国衆は再び上杉を離叛して北条に服属し直したり武田に従ったり...