●勝手に動き出す取次
そのため、極端な場合、大名の重臣が大名の意向を確認せずに外交交渉を開始してしまう場合もあります。そのような場合、大名は通常怒るのですが、利害関係が一致すると考えれば黙認することもあります。すると、勝手に外交を始めた人間が取次になります。取次は制度ではなく、一種の契約関係を大名が追認するということもしばしばあったからです。
これに関して、面白い事態があります。薩摩(現・鹿児島県西部)の大名・島津義久の弟に、島津家久という人物がいます。家久は非常に積極的な人物で、九州の国衆たちを降伏させようとあの手この手と動き、さまざまな手を打ちました。ただ、これは義久や島津家の宿老たちが関知していないことでした。にもかかわらず、家久が勝手に話をつけてきていたのです。
まず、肥後(現・熊本県)北部に阿蘇大社という神社があります。この神主が国衆です。神主なのに国衆というとおかしな気もしますが、中世では珍しくありません。この阿蘇家は、島津家に敵対していた龍造寺に従っていたのですが、島津が次第に北に勢力を伸ばしてくると怖くなってしまいました。そこで島津家に降伏したいと言い出します。ところがその時、降伏するけれども、島津の領国内に散らばっている阿蘇大社の領地を返してほしいという条件をつけました。大きな神社の領地ですから、あちこちに存在していたわけです。
しかし、これはどう考えてもおかしな話です。降伏する側が条件を出すからです。しかも、今まで島津は阿蘇家の降伏を門前払いしてきました。当然、これでは話が通るわけはありません。
そこで、島津家もおかしいと思い、阿蘇家に「どういうことだ」と問い質しました。すると、「実は島津家久様と相談の上で申し上げました」、という返事が返ってきたのです。つまり家久は、阿蘇家を寝返らせようと勝手に色よい条件を提示してしまっていたのです。阿蘇家からすれば、何しろ義久の弟が出してきた条件ですから、安心してその話を持ち出したのです。ところが、島津氏の側は「いったい何の話だ」と怒ってしまったという次第です。それで阿蘇家は慌てて条件をひっこめました。この後、いろいろ揉めるのですが、最終的に、「まあ赦(ゆる)してやろう」ということになり、阿蘇家は島津家に服属することになります。
●勝手に動いた場合でも、面目を潰さないように取次を守った
その理由がまた興味深いのです。「この話は島津家久様が取りまとめた話であるので、壊してしまっては、家久様の体面を傷つけてしまう。それは避けたい」というのです。取次が大名の弟なので、家臣団は気を遣ったのです。
それで味をしめたのか、この家久はまた同じ事を繰り返し行いました。しかも今度はもっとひどいのです。北九州における最大の大名は豊後(現・大分県)を本拠とする大友氏で、切支丹大名になった大友宗麟が全盛期を築きました。この時期の九州は、島津の勢力拡大の結果、大友と島津で二分する情勢になっていました。その大友の家臣が、島津に寝返りたいと言ってきました。具体的には謀叛を起こすので援軍を送ってほしいという話です。その人物に対する取次に家久が事実上立候補するのですが、島津家では援軍を出すことに反対論が強い状態でした。すると家久は、「すでに謀叛が起きていて、大友領は火の海になっている」という報告をしたのです。実はこれは島津の軍勢を動かそうとするための真っ赤な嘘で、上井覚兼という島津の家老の報告でばれてしまいます。
すると今度は、その大友の家臣に対して援軍を待たずに謀叛しろとそそのかします。謀叛という既成事実をつくってしまえば、島津軍も動かざるを得ないだろうという判断です。これも覚兼の報告でばれてしまいました。島津義久は「この案件で弟(家久)は信用ならん」と判断したのです。
●取次は大いなる責任を伴うもの
こうなると、島津家久は、いったい誰のために活動しているのか分かりません。島津家のために動いているのか、それとも取次相手である大友の家臣を助けるために動いているのか。話が進まずに困り果てた大友の家臣は、今まで家久を抑えていた上井覚兼に取次を依頼しました。すると覚兼の態度がころりと変わります。「彼(大友の家臣)を見捨てるようなことがあれば、外聞が悪い」と言い出すのです。つまり取次になることは、一つの利権でもあったのですが、相手を保護するという大きな責任を伴うものでもあります。取次の立場からすれば、交渉をうまく取りまとめられるかが、自分自身の面目そのものに関わる大問題であったのです。
●取次同士の駆け引き
こう考えていくと、取次同士の駆け引きについても、興味深い事例が出てきます。上杉謙信と朝倉義景の話はこれまでにお話ししましたが、次の話は上杉謙信が武田...