●取次の副状
今回は、取次のさまざまな活動をもう少し掘り下げたいと思います。戦国大名の外交には、取次という外交官が大きな役割を果たしており、大名の書状に副状という書状を付して、大名の発言を保証するという役割があることは、これまでにお話ししました。こういった書状の作られ方について、面白い事例が残されているので、それをみていきたいと思います。
例として挙げるのは、今の福島県南部の国衆である白河結城氏と、小田原北条氏の外交です。白河結城晴綱と北条氏康は友好関係にあり、しばしば書状を交わしていました。ところが、晴綱の耳に、不穏な噂が入りました。白河結城氏の宿敵であった常陸国北部(現・茨城県)の大名・佐竹義昭が北氏康と同盟を結んだというものです。その上、さらに婚約までしたという話が伝わってきました。仰天した晴綱は、氏康に事情を問い質す使者を派遣しました。
使者が派遣された先は、北条氏内部で、白河結城氏との外交を担当している取次の北条綱成でした。北条綱成は、苗字から分かるように、北条氏の一門ですが、彼は相模の玉縄城を預かっており、小田原城にはいない存在でした。よって、綱成は、受け取った書状のなかに氏康宛の書状があるということで、ただちに小田原に転送しました。今度は氏康が驚く番です。
氏康の弁明はこうでした。「確かに佐竹義昭が挨拶の使者を寄越したことはあり、これは認める。ただし、一度きりの話で、常陸という遠い国からの使者なので、追い返すのもどうかと思って、一度だけ、返事を出したのだ。同盟を結ぶなど、考えたこともない。もし佐竹を攻撃しろと言うのなら、一緒に実行しようと思う」。これが氏康の返事です。
●副状の命令書を一緒に送ってしまった
面白いのはここからです。北条氏康は、取次である北条綱成に宛てて、副状を作りなさいという命令を記した書状を送りました。その際に、自分が白河晴綱に送った書状の写しを添付して、これを参考に副状を作りなさい、と指示しました。つまり、取次の発言と、自分の発言に矛盾が生じないように、配慮したのです。
それを受け取った取次である綱成は、ただちに副状の作成に取り掛かりました。そして、晴綱の使者に書状を渡すことになるのですが、何を渡したかが問題になります。まず、氏康が晴綱に宛てた書状(返書)ですが、これはよいでしょう。次に取次である綱成の副状です。これも必要不可欠なものです。またもう一人の取次である氏康側近が書いた副状も必要です。問題は、もう一点あったということです。それは何かというと、氏康が取次である綱成に送ってきた命令書です。つまり、「これこれこういう内容の返事を書きなさい」と記した氏康の書状も一緒に送ってしまったのです。これでは、綱成の副状が氏康の言う通りに書かれているということがばれてしまいます。
●むしろ一致団結していることを示す戦略
現在では考えられない話です。なぜなら、「こういう風に書きなさい」という命令書を外交相手に渡してしまったからです。ところが、これで一切問題がありません。そもそも、副状というのは、大名と家臣の意見が一致しているという事実を、相手に示すことが最大の目的です。ですから、取次のほうも、大名の意見をきちんと聞いて、お互いに話し合った結果、副状を作った、ということを相手に説明しているのです。そうすれば、より外交文書の信頼性が高まると、取次である綱成は考えました。それゆえあえて氏康からの命令書も一緒に送りました。
特にこの時のやりとりは、北条氏が裏切ったのではないか、という晴綱の疑惑を晴らす必要があるものでした。対応を誤れば、友好国を失いかねないような細心の注意が必要な外交交渉だと言ってもよいでしょう。だからこそ、綱成は、慎重を期して、北条家が一致団結して晴綱との友好関係を維持していく姿勢を示そうと考えました。
その手段が、氏康からの命令書も一緒に、要するに手の内を明かす形で、外交文書として送るというものであったわけです。したがって、これは滅茶苦茶な外交に見えて、非常に高度な外交戦略であったといってよいでしょう。
●取次の地位と相手大名の戦略
こうした高度な役割を果たすわけですから、外交官たる取次の存在は非常に重要なものでした。むしろ、交渉相手の大名にとってこそ取次の存在が重要であった、と言ったほうがよいかもしれません。というのも、相手大名との同盟を維持するには、取次が自分の国との同盟が重要だ、と大名や他の家臣にアピールしてくれることが大切だからです。
そのため、諸大名は、自分の国の担当取次の取り込みを図ることを考えます。まず、普段は使者が往来するたびに贈答を交わします。何かしてくれた人に贈り物をすることは、前近代社会では基本中の基本でした...