●外交戦略としての「国家安全保障戦略」と徳川家康の考え方
皆さん、こんにちは。2022年12月16日に、いわゆる「防衛3文書」というものが発表されました。これは「外交安全保障戦略」、それから「国家防衛戦略」、そして「防衛力整備計画」の3つからなっています。
「国家防衛戦略」というのは、昔の「防衛計画」の大綱です。そして「防衛力整備計画」は、昔の「中期防衛力整備計画」に相当します。中でも、今回の私の話にまず関係してくるのは、この「国家安全保障戦略」というものの考え方です。「安全保障戦略」と銘打っていますが、簡単に申しますと、基本的な中核になっているのは外交であるという考え方です。
すなわち、日本は軍事力をもって全てを解決するというのではなく、基本的に外交力をもって、問題・懸案を解決する。しかし、そうした大きな筋道の中で、国家としての安全保障戦略というものを、総体として考えておかなければならないというのが日本政府の立場です。これは、亡くなられた安倍晋三元総理大臣から、現在の総理大臣が受け継いだものです。
私が、この「国家安全保障戦略」は外交戦略だということを考えるときに、少し歴史を振り返り、徳川家康のものの考え方をどうしても思い出します。
それは最近、私自身が『将軍の世紀』という書物を書いて、家康に関心を持っているからということからだけではありません。家康は、天下国家を統一したときに、外交とは何か、そして国家安全保障というのは何かということを、一貫して考えてきた政治家です。
●松平定信の随筆に記された家康の安全保障観
皆さんの中には、「寛政の改革」というものをご存じの方が多いと思います。11代将軍・徳川家斉の時の、松平定信という将軍・徳川吉宗の孫に当たる人物です。定信は、政治家であると同時に、引退した後、特に旺盛に執筆活動、随筆活動をしたことで知られています。
定信は、亡くなる2年前の文政10(1827)年に江戸随筆(『閑なるあまり』)を書きました。当時、北縁のほうでは、ロシア、それから日本の周辺にはイギリス、アメリカの船などが出没するようになっていました。そのような、国防や安全保障の問題を考えなければいけない時期に、定信は残念ながら政界を去るということになったわけです。その、いわば定信が致仕(ちし)した後、す...