●大名のランクは「国持かどうか」が重要
山内 (徳川家斉が行った「自分の血を行きわたらせる」施策について、マイナス面の)二つ目は、ものすごくいびつな構造が起きるのです。将軍の血を受けた、少し間違えれば次期将軍になるかもしれない資格を持つ人間たちばかりが、殿様として来るわけです。そうした人間が来たら、例えば従来の蜂須賀や南部などの格、あるいは鍋島や浅野などの格を変えないといけないわけです。
どういうふうに変えるか。江戸時代の大名のいろいろなランキングは複雑で、われわれがよく用いる方法は、「親藩、譜代、外様」という分け方です。それから二つ目は、「石高」で分けます。103万石の前田が一番上で、次は70数万石の薩摩、次は64万石の伊達といったように。このように石高で分ける方法もあるけれど、これは非常にアマチュアリッシュ(素人っぽい)な見方です。それを別の言葉で置き換えると「国主、国持であるかどうか」、あるいは「準国持、準国主であるかどうか」。この「国持かどうか」が大きいのです。
この場合の国持、国主とは、例えば「薩摩を持っている(あるいは薩摩の一国を持っている)」「筑前を黒田が持っている」「土佐を山内が持っている」といったように律令制からこのかた、一国(国の単位)をそのまま領地している(所領として持っている)ところもあります。
けれども、例えば肥前の鍋島とか。また、実は肥後の細川は、相良(さがら)が入っているので一国ではありません。それから伊達は、陸奥一国ではないでしょう。一国(だけ)を領地としていなくても、陸奥の伊達、あるいは細川、鍋島のようなものは、浅野が安芸国を一国と備後も一国を持っているのと同じように、「国主」と呼ばれたわけです。
―― なるほど。
山内 反対に、小さい国を持っている領主もいます。対馬の宗(そう)や、それから松浦は壱岐を持っている。それから、志摩を持っている鳥羽城主など。これらはいずれも国を持っているけれども、「国主」とはいわないのです。
この「国主であるかどうか」が、武家大名ランキングで非常に大きい一つの基準になるのです。これに石高が組み合わさるのですが、「国主」であることは圧倒的に大きい。その国持に準じる格があるのが、柳川の立花や、伊予の伊達(伊達家の分家であり、政宗の長男・秀宗から始まった家)です。そういう家が国持格、国主格と呼ばれる。このような分け方もあります。
●殿席で起きた“インフレ”から家格の変動が発生
山内 もう一つ大事なことは何か。家斉の子どもたちが嫁ぐ、あるいは養子で行くのは、だいたい国主格か、それ以上です。これはいいのですが、最後にもう一つ、何に絡むかというと、江戸城に上がったときにどこの間に詰めるか、どこの間に控えるかということ。これを「殿席」(でんせき、てんせき)といいますが、この殿席(どこに控えの間、あるいは詰めの間を持つか)が非常に大きいのです。
上からいうと、「大廊下」(おおろうか)。それから、外様大名であれば「大広間」(おおひろま)。譜代大名であれば、「溜の間」(たまりのま)、その下に「帝鑑の間」(ていかんのま)。それから「菊の間」(きくのま)など、いろいろあります。大廊下は「上の部屋」と「下の部屋」の2つに分かれるのですが、本来、「上の部屋」は御三家だけ、「下の部屋」は前田だけということになっていました。ところが、家斉がそのようにやってしまう(自分の血をいろいろな家に入れていく)と、インフレが起きるわけです。
島津は本来、大広間にいたわけです。ですが、家斉の御台所(正夫人)は、島津重豪(しまづ・しげひで)という大名・島津家の娘です。自分の御台所の実家が大広間でいるというわけにはいかないので、結局、大廊下の下の部屋になったのです。
―― なるほど。島津重豪の娘が家斉の正室だからですね。
山内 そうです。これにはわけがあって、もともと一橋家にいた時の家斉がまだ将軍になる前に、許嫁、そして結婚相手として決まったのです。決まっていたのだけれども、家斉が将軍になってしまった。そうすると、この決定をどうするかという問題が起きたわけです。
島津家は外様大名でもあるし、その家の娘がそのまま将軍家の御台所になるにあたって、たしかにずいぶんと問題があったのだけれど、結局、受け入れた。そうして将軍の御台所になったという経緯があって、これだけでもなかなか複雑で面白い話ですが、それで「島津ではあるけれども、正夫人の実家でもあるから、そこ(大廊下)に」ということになった。
―― 面白いですね。
山内 すると今度は、蜂須賀も同じ外様大名なので、蜂須賀もすごい運動をするわけです。「うちの斉裕(なりひろ)さんをどうしてくれる」という形で、いつの間にか蜂須賀も、大広間か...