●「江戸時代のキャリアウーマン」が集う大奥の職制
―― 第1話では、いかに大奥ができてきたのかについて、そこにおいて春日局がどれだけ重要な役割を果たしたのか、どういう思いで作ったのかというお話をいただきました。では、出来上がった大奥が、具体的にどのようなものだったのかということをぜひ教えていただきたいです。いわゆる職制について、いろいろな立場の方がいたと思うのですが、どういう構成になっていたのでしょうか。
堀口 そうですね。大奥の頂点というのは、当然将軍と将軍の正室である御台所(みだいどころ)なわけですが、将軍と御台所のそれぞれに女性の役人がつきました。雑用係まで含めると、増減はあるわけですが、およそ2000人の女性たちが大奥で働いていたといわれています。
―― 幕末の頃になると、費用節減で大奥の人数を減らすという話になってきたりすることもあるそうですね。
堀口 そうですね。お金がかかります。いろいろな役職もあり、職制がございますので、詳しく見ていきます。
こちらが江戸時代後期頃の大奥の女中の役職でございます。とくに、将軍お目見え以上、つまり将軍と対面する資格のある女中ということなのですが、お目見え以上の奥女中になるには、基本的には旗本の武家の女子である必要があります。
ただ、それ以外の場合でも、一度旗本の養女になって大奥に上がるというパターンもありました。ちなみに、大奥というと、なんとなく将軍の側室のハーレム的な漠然としたイメージを持ちがちなのですが、側室というのはこの職制の中の「御中臈(おちゅうろう)」という役人から出ます。
御中臈というのは身の回りのお世話をする付き人的な役目なのです。将軍付きと御台様付きの御中臈がいるのですが、将軍付きの御中臈の中から何人かにお手がつく、もしくはお手つきになった女中が御中臈になるということもたまにあるのですが、いわゆるこれが側室と呼ばれる人たちでした。
―― ということは、なんでもかんでもという話ではないということなのですね。
堀口 そうなのですよ。大奥の女性たちみんなに将軍のお手がついたというわけではないということです。大奥というのは、江戸時代のキャリアウーマンの世界であり、最高峰の女性役人の世界でして、主に人事の面で表の幕府の政治面に大きな影響を持ちました。
●例外的に権力を持っていた姉小路の手腕
役職としては、「上臈(じょうろう)」というのが最初にきていますが、格式としてはこの上臈が最上位なのです。ただ、ほぼ実権はなく、将軍の正室は京都のお公家さんからお招きすることが多かったので、正室と一緒に京都からやってきた公家出身の女性が正室の話し相手になるくらいの役職ではあったのです。ただ例外がありまして、幕末の上臈御年寄(じょうろうおとしより)の姉小路(あねがこうじ/あねのこうじ)は、やはり人事においてものすごい権力を持ったといわれています。
というのも、この人は公家の娘で、12代将軍・家慶付きの上臈御年寄になるのですが、家慶に非常に信頼された人で、将軍家と大名家、それから公家、それぞれのニーズに応じた縁組を取り持つことで権力を持ったのです。
―― 要するに、嫁に出すところや嫁を取るところの差配をしたということになるのですか。
堀口 そうです。というのも、家慶の父親、11代将軍の家斉は、子供が55人いました。将来将軍となる家慶の兄弟の縁組先というのは当然、公家や大名から選ばなければいけないということで、とても大きな関心事になっていたわけです。
上臈御年寄というのは、決定権を持っている将軍に直接対面して意見ができる立場にありましたので、もう姉小路の部屋には、口利きを願う大名たちの賄賂がうず高く積まれていたという話もあります。
―― いかに大奥が人事的な権力を持っていたかという話でいうと、テンミニッツTVで山内昌之先生から諸文献の話をしていただいているのですが、その中で水戸斉昭、いわゆる水戸藩の徳川斉昭公がいかに大奥に嫌われ、それが後々、その息子の将軍争いなどにどう影響したかという話をされていました。そういうことがあるということなのですよね。
堀口 大いにあります。また水戸家というのは、いわゆる一橋派というのを形成して14代将軍を誰にするかというところで、大きな政争の中心になっていた家でもあります。そして実は姉小路も水戸家と関わりのある人なのです。
幕末の人事というところを見ていきましょう。例えば、13代将軍の徳川家定の正室、篤姫と呼ばれている方(後の天璋院)の輿入れのときも、大奥側の担当者として島津家との交渉を行い、14代将軍の家茂のもとに皇女和宮が降下するときには、姉小路が和宮の大叔母にあたることから、幕閣からの要...