●将軍になる前に統治経験を重ねていた
―― 徳川吉宗が将軍になったのは、何歳くらいだったでしょうか。
山内 将軍になったのは、30代だったと思います。ですから、すでに統治経験を重ねていたわけですね。
―― 紀州藩主になってから10年ほどたっていたわけですね。
山内 彼が直接出かけたという記録はありませんが、越前にある丹生郡という三万石の土地を、徳川綱吉から貰っています。
吉宗自身は「部屋住み」だったのですが、長男(吉宗の長兄)の綱教は綱吉の娘婿だったものですから、その弟(徳川頼職・吉宗のすぐ上の兄)を召したんですね。そして、(その頼職に)越前丹生郡内の三万石の土地を与えました。
当時、綱吉の傍に控えていた老中・大久保忠朝(ただとも)が、「紀州殿は子福者(子だくさん)で、しかも皆、優等生でいらっしゃる」と言ったら、隣の部屋にいた頼方(のちの吉宗)が現れてきた。そしてすぐ上の兄と同様に越前丹生郡内に三万石を与えられたという。
吉宗はこれを徳として、老中・大久保忠朝の子どもである若年寄・大久保忠増に、「そちの父には世話になった」と義理を忘れず、五千石を加増した、という話があります。
―― 立派な人ですね。
山内 いずれにしても、そこで頼方改め吉宗は、三万石の時、つまり若い時から立派な領主として統治経験をしていた。また、贅沢感覚はない。
それから、紀州に帰って部屋住みの時も、彼が好きだったのは魚釣りです。さすがに公然と「生類憐れみの令」を破ることはせず、好きだったはずの鷹狩りなどは抑えます。ですが、紀州の豊富な川、それから近くは南国世界の海ですから……。
―― クジラなどが捕れますね。
山内 クジラは土佐が有名ですが、紀州でも大物とまではいかないけれども、捕れます。とにかく、海釣り、河釣りをやっている。そういうところで魚の名前を覚えたり、植物や木々のありとあらゆる名前を覚えたり、薬草が薬や食糧になることなどを実地で分かっている人間なのです。
―― 吉宗は、ものすごく好奇心があったのですね。
山内 好奇心があって、生活感覚もあったわけです。そういった経験を持った将軍は、徳川家康以外では初めてです。家康は、若い時に辛酸を舐めて苦労しています。2代将軍・秀忠は、基本的には大大名徳川の子息として育っていく。そういったことから、まさに「上から目線」とは反対的な部分も持っている点で、吉宗は面白い。
●大奥が政策決定に大きく影響を与えることを知っていた
―― お母さんの影響もかなりあったのですか。
山内 影響はあったでしょうね。浄円院は、大奥などで摩擦を起こすことを好まなかった。当時の大奥の実力者は、6代将軍・徳川家宣の御台所(未亡人)でした。その天英院に対しても、浄円院は遜った態度を取って、張り合うことはなかった。吉宗自身も大奥に対して慎重だったから、大奥で非常に評判のいい人物だったのです。
吉宗は非常に倹約家でしたが、その倹約は、自分のことや政治の「表」の空間、自分の執務空間である「中奥」の空間に関してのことです。大奥に関しては、「女たちは一生閉ざされた空間にいて不憫なのだ。だから少しは贅沢を許してやれ」とした。このようなメリハリがあった。
―― メリハリがつけられるというのは、すごいことですね。
山内 着物や食べ物などに関しては鷹揚でした。したがって、大奥の予算はあまりカットしていません。
―― 自分の表をカットしながら、そういうところをしっかりと分かっていると。
山内 金額は1000両単位の額だったと思います。
家宣の側室で、7代将軍・徳川家継の母だった月光院という人物がいますが、月光院の屋敷(御殿)を大奥につくることもしています。大奥をどう掌握するか、つまり表に出てこない幕府の政策決定者、政策決定に大きく影響を与える人間たちが大奥であることを知っていたわけです。
だから大奥とは敵対しない。このあたりの政治感覚と、そういう古今東西の真理を分かっていました。現代の政治家でもそうでしょう。全国に男性と同じくらいの数がいる女性有権者を敵にした国会議員は、あまり良い末路を辿らないでしょう。
―― その意味で吉宗は、将軍になる前に、ものすごくバランスがとれて、人間通の人に育ちあがったのですね。